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和綴じの表紙を開けると、序文があり、本書は、江戸末期の大橋宗英という第9世名人の「将棋歩式」という書のダイジェスト版であることが記載されている。奇妙なのは、序文の最後には、「木見金次郎」と書かれているが、将棋史上は金「次」郎ではなく、金「治」郎ということになっている。内容は、各種駒落ち定跡や、平手定跡で、現代的にはあまり参考にならないが、特筆する点としては、振飛車高美濃囲いに組ませてから、先手の居飛車側が仕掛けの時期を得て▲4五歩と付ければ、それでよし、ということになっている。あとは、腕次第ということだったのだろう。詰将棋も桑原君仲の古典を何題もそのまま使っている。
で、本書のことから少し離れ、木見の人物を追ってみた。ネット上でわかるのは、彼が、大山康晴、升田幸三、という稀代のライバル棋士の師匠であったこと。その升田の兄弟子の大野源一も振飛車の雄で、この3人で現代将棋の門を開いた、とも言えるわけだ。しかし、師匠である木見金治郎そのものについては、なかなか、その生年・没年すらわからなかった。
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日比谷図書館で調べていると、天狗太郎氏(将棋評論家)著「昭和『将棋指し』列伝」のある一章が木見に与えられていた。
木見金治郎は明治11年(1878年)6月24日、岡山県児島郡木見村に生まれる。村名と苗字が同じだ。実家は古鉄商である。商売上の都合で9歳の時、神戸に移住する。神戸には製鉄所や造船所などがあり、都合がよかったのだろう。明治初期はどんどん産業が熱くなる時期で人口も増え、内需も伸びる。
その時、十代の金治郎は、何をしていたか・・・。実は、「賭け将棋」である。とんでもない奴なのだ。そして、腕自慢で自分の腕で小遣いをかせいでいたのだが、19歳の時、たまたま神戸に来訪したきた関根金次郎(後の13世名人)に軽くひねられる。19歳の春である。そして、自己流の限界を感じ、定跡書を読みふけることになる。その一つが、大橋宗英だったのだろう。
天狗氏の書には両親のことは書かれていないが、何らかの理由で、古鉄商を引き継いだ金治郎だが、将棋の夢は捨て難く、ついに家業をたたみ、大正3年(1914年)の初夏に東京に出る。関根金治郎の門下に入り、プロ六段。その時、37歳である。40年ほど前までの棋界では、小学校卒業と同時に師匠の家に住み込み、内弟子生活でしのぎを削り、プロになるのが普通だったが、一度社会人になってからプロになる例もあり、中年組とか晩学組と呼ばれていた。この37歳というのは、もっとも遅くプロになった例かもしれない。関根から教わったのが「将棋」ではなく、「飲む打つ買う」だったことが、プラスだったかマイナスだったかは知らない。
ところが、時勢は第一次大戦後の武力増強期。古鉄価格が急騰。親戚の古鉄商に請われて、再び大阪に戻り、棋士と古鉄の二足のわらじを履く。が、人気棋士に力仕事のビジネスの余裕もなく、結局、大阪伏見五丁目の自宅に「大音」といううどん屋を開業する。大野源一は出前をやらされていたそうだ(大山・升田も内弟子だったが、まだ少年だったはずで、うどんの配達は免れたようだ)。
そして、東京では関東大震災が起こり、カール・ユーハイム氏も一文無しになって神戸へ逃れてくるわけだ。
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さて、前々回出題の詰将棋の解答は、こちらへ。
変化と本筋と感じが違う作。変化部分だけで別の詰将棋に発展できそう・・
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