名古屋城を探索

2006-11-14 00:00:23 | The 城
名古屋に行く機会は何度もあるが、関東からだと日帰りで、仕事が終わるとサヨウナラということで、なかなか名古屋城に入ったことがなかった。無理に行こうとも思わなかったのは、現在の天守閣は再建だし、エレベーターまである。それに、城にまつわる有名な話は本で色々読んでいて・・つまり、「本物の価値」は大きい、ということの裏返しの気持ちだ。しかし、城に登るにちょうどいい時間が余ったため、ちょっとのぞきに行く。行けば色々考えることがあった。

ce954891.jpgまず、屋外で菊人形展をやっていた。派手なポスターがあちこち出ているのに、すごく小さな展示なのだが、これがすべてだったのかどうかはよくわからない。全然、予想と違った。電動で菊人形が動く。もちろん、主役は、徳川宗春公。尾張の中興の祖である。現代の名古屋独特の文化の多くは、この殿様の時代に発現した(八丁味噌は江戸初期)。松平健主演の「暴れん坊将軍」では、紀州出身の吉宗を、将軍争いのライバルの尾張の宗春が暗殺しようと刺客を放つというのが、基本テーマの一つで、すっかり悪役になっているのだが、緊縮財政の吉宗でなく、高度成長派の宗春が将軍になっていたとすると、間違いなく、日本史は大きく変わっていただろう。もっと早く、開国して、現在のアメリカのような大国になったかもしれないし、最盛期の清国と大戦争をして敗北を喫し、現在の台湾のようになっているかもしれない。

そして宗春公の傍らに侍るのは「側室」と書かれていて、名前も書いてもらえないのだが、では由緒正しい出の正妻はどこに行ったのだろうと思えば、御三家といえども妻は江戸にいるわけだ。そして、江戸は政治都市で堅苦しいのだが、地元にいれば殿様は無敵の存在。あちらこちらと教養より美貌という基準で女性を侍らせ、跡継ぎを作っていたわけだ。これでは、大名の遺伝子的レベルが下がる一方で、幕末には、知能の優れた大名は、きわめて少なくなっていた。15人の徳川将軍の中でも、正妻の子は家康、家光、慶喜の三人だけである。そして、徳川尾張家も宗春の後は、江戸徳川本家によって、養子などを強要され、家系をめちゃめちゃにされる。

ce954891.jpgそして、現地ではわからなかったのだが、城全体の縄張(設計図)を書いたのは、私のご贔屓の藤堂高虎だったようだ。1610年。関が原の後、大坂の陣の前だ。私の知る限り、既に藤堂高虎は、城の縄張には、飽き飽きしていたと思うので、ラフなスケッチを書いたのではないだろうか、と想像。堀割りは北西側には大きな水堀で防衛力を強化しているが、東南側には空堀もある。西からの攻撃に備えた相手は豊臣勢なのだろう。なお、空堀があることについて、「名古屋人はケチだから堀の水も節約した」と言われているのだが、あたっているかもしれない。

次に、天主閣の石垣だが、これは大問題である。遠目で見て、「アレは!」という声が出そうになる。まさに加藤清正である。石垣が急角度で反っている。清正が大石に乗って、運搬員を扇子で激励している銅像があるが、あえて、ある重大な事実を無視している。

ce954891.jpgこの石垣の積み方こそ、韓流である。石垣の裾の傾斜は緩いが、上るにつれ急角度となり、最後はほぼ直角で、よじ登れない、という構造。熊本城にその例を見る。また韓国の蔚山市に残る倭城は清正が作ったものだが、ここが、熊本城、名古屋城の石垣の基本モデルである(なんだか、書いていて、ウルサンに現物を見に行きたくなる。現代自動車の本拠地だ)。朝鮮戦役で日本から持っていった唐辛子との交換で持って帰ったのは強制拉致した有田焼きの陶工とアケガラスだけではなかったのだ。石垣築城術もそうだったわけだ。

余談だが、江戸時代以降、全国数百の天守閣のうち、実戦で攻防戦があったのは、大坂城、原城、五稜郭、そして熊本城(西南の役)と言われるが、熊本城だけは落城しなかった。

そして、ここで、右脳感覚で考えてみると、この韓流石垣だが、一方で、石垣の上にのせる天守閣の設計も並行して行われているはずである。何しろ戦闘用の城なので、ぐずぐずできないから同時並行作業だったはずだ。ところが、石垣は無論、下から石を積むわけだ。そうすると、この曲面城の石垣を組み終わらないと、天主閣をのせる天主台の大きさが決まらないはずだ。天主台ができてから上物の設計を始めると、全体の完成が遅くなる。同時作業が進むためには、まず天主台の大きさを決め、そこから石垣の底面積とその位置を決めてから石を積み始めるはずだ。同時に材木や瓦の調達を始める。どうやったのだろうか。

こういう資料の乏しい問題を考えるのには、想像力が必要なのだが、つい最近思いついたのは、縄を使ったのではないだろうか、ということだ。この加藤流の石垣のカーブは、縄をたるませた場合のカーブとほぼ同じように見える。結構、確信している発見だ。材木で天主台の枠組みを空中に仮組みしておいて、そこの四隅から八方に縄を伸ばして、自然重力のカーブをとり、それにそって石を積む。

藤堂高虎の高石垣と対照的な、この曲面城の石垣について、韓国渡来と書かないのも、歴史認識課題だろう。

ce954891.jpg次に、空襲で焼けた本丸はただの広場になっている。襖絵など数々の美術工芸品とともに、燃え尽きた。天守閣も一緒だ。そして、金の鯱も一緒だ。あれだけ目立つ建物なのだから、空襲の目印に使われたのだろうと、嘆く向きも多いが、その分、市街地へ落ちる爆弾を身代わりに浴びて犠牲者数を減らしたのだと考えれば、清正にとっても高虎にとっても本望なのかもしれない。

そして、天守閣は大きい。展示は、下階から順に上ぼりながら見ていく構造なのだが、軟弱にも嫌いなエレベーターで上までいってから、逆順に時代を追うことにした。日本の各地には、江戸時代に作られた城番付というのが残る。城というのは、主に天守閣と本丸の合計で評価すべきものだが、だいたい、名古屋と大坂が両横綱になっていて、東大関が姫路城というのが多い。そして江戸城は番外ということで、中央の行司の欄に書かれていたりする。一方、江戸時代はどんな風狂な城好きでも、全国城行脚など認めてもらえないわけだから、こういう番付は、隠密の手(知識・意見)によるものと考えるべきなのだろう。




ce954891.jpgそして、この巨大な鉄筋コンクリート名古屋城を一巡りして見ると、もっと巨大な江戸城天守閣を原寸大で再建するなど、やめたほうがいいだろう、という思いになるのだ。これで十分だ。どっちにしろ歴史上、失った本物は戻ってこないのだ。