井伊直弼考(上)

2006-11-21 00:00:19 | 美術館・博物館・工芸品
歴史を読むのに、学校では古代から教えていく。因果関係上、歴史小説のように教えられるから、説明上便利だからだ(といってはみもふたもないが)。一方、逆に現在に近い方から昔に向かって進んでいく方法もある。実際、我々が、自分の祖先のことを考えると、まず両親のことに始まり、さらにその両親、さらに一代前と遡っていく。たいてい何代か先でわからなくなるが、由緒正しいのはそこまでということである。そこから先は怪しい限りである。

この遡及法で、日本史を辿ると、いきなり第二次大戦の因果関係ということになり、例の歴史認識問題にぶちあたってしまう。そして、大概はテロルの時代と軍国主義を陸軍のせいにして、長州、薩摩対決という話になり、幕末のところの官軍・幕軍という対決軸でみてしまうのだが、果たしてそれで済むのかよくわからない。

江戸時代も末期になると、江戸初期とはまったくパワーバランスが変わっていて、実際には、老中を中心とした江戸政府という集団官僚体制になっていて、地方の巨大な大名はもはや幕府が一方的に改易とかできない状態になっていた。

そういう危うい構造の中で登場したのが水野忠邦だったのだが、経済政策に矛盾があり不発に終わる。重商主義に向かうための資本が枯渇していた。年貢を上げようにも田畑は荒廃。結局、緊縮財政を図るが、役人の抵抗で破綻。そして、登場したのが、俊英の阿部正弘(1819-1857)。幕府の期待を一身に集めた英才だったが評価が分かれる。国難にあたって、全国の大名にアンケート調査をする。○×式でなく記述式アンケート。八方塞の幕府が再生するならば、彼しかいなかったのかもしれないが日本の針路が決まる最も重要な時期に早世してしまう。いわゆる過労死である。そして次の宰相が井伊直弼(1815-1860)。

そして、直弼が桜田門で斃れた後を継いだのが安藤信正、そして堀田正睦ということになる。安藤も堀田も暗殺されそうになる。総理大臣が連続3人も襲われるのだからひどいものだ。テロルの時代。

そして、歴史上、悩ましい問題は「井伊直弼」の評価なのである。これが大きく異なるわけだ。開国推進派だった。もちろん、長州も薩摩も攘夷といってはいたが、仏英にひとひねりされる。(その時の賠償金のつけを幕府が払うことになり、さらに明治政府が引き継ぐことになった。)その後、明治になって、新政府の役人は、こぞって米国や欧州に視察旅行に行ってしまうのだから、開国の恩人は井伊直弼ということになる。下手をすれば薩英戦争ではなく日英戦争や日米戦争になっていたかもしれない。

ところが、彼の評判が悪いのは「安政の大獄」を行い、開国反対派を押しつぶしたこと。特に水戸藩士は標的になっていて、それが桜田門外の変につながったというのが通説である。水戸藩士は攘夷の他に尊皇思想に固まっていて、話はややこしくなっていく。果たして、直弼の評価は?

15b39cc9.jpg実は、井伊直弼の墓は、彦根にあるのではなく、東京の世田谷にある。小田急の駅名にもなっている豪徳寺に井伊家代々の墓地がある。まずは、供養に行かねばならないか。

その前に、なぜ、世田谷に井伊家の墓があるかというところを押えなければならないのだが、少し、長い。

井伊家は何といっても徳川家康の家臣をしていた井伊直政という大人物が、すべての始めである。まず、信長が本能寺の変で殺された年(1582年)に4万石を得ている。その後、家康の家臣として12万石に加増。当時は三重県(上野)に領地があった。そして、1600年の関が原の戦いで大活躍し、18万石となる。近江の佐和山城に移る。(元々、藤堂高虎の出身地の近江に井伊家が入り、井伊のいた伊賀上野に藤堂家が回ってくる。)

さらに、加増や分家を繰り返し、大坂の役での活躍で25万石となり、彦根に移る。彦根城は現存12城の一つで、付属の彦根城博物館は、名古屋の徳川博物館とならぶ”お宝の宝庫”だ。そして1633年に最後の加増が5万石あり、30万石となるのだが、それは「飛び地の支給」だったわけだ。要するに、単に領地を増やすといっても、領地の隣に空き地があればいいが、お取りつぶしでもなければ、それは無理。もう、全国の色分けができていたわけだ。(井伊35万石とも言うが、本家と分家の合計のこと。実は分家の方が30万石。)

そうなると、そういう少しだけ加増するために、幕府があちこちに持っていた天領をつぎはぎにして飛び地で与えていたわけだ。段々、幕府が貧乏になったのも頷けるわけだ。そして、井伊家に与えられた最後の領地は、関東五万石として、栃木県の佐野と世田谷の15村だったわけだ。なかなか難しいのは、では佐野は実質17,000石で、世田谷の方は3,000石にも満たないとされ、公称5万石、実質2万石ということだったようだ。しかし、この5万石を合わせ、井伊30万石という名目で、譜代大名筆頭というきわめて重要な地位を得るのである。東京に紀尾井町という地名があるが、紀伊と尾張という御三家とカップリングになるほどの地位である。

そして、江戸での井伊家は上屋敷が江戸城のそば、現在の憲政記念館のあたり。そして、下屋敷は遠く離れて、原宿の明治神宮そのものである。この二ヶ所は、徳川・豊臣間の橋渡しをしていて変死した加藤清正の屋敷であり、この清正、井伊直政、そして藤堂高虎、さらに堀田氏は江戸の歴史の後の方まで、因縁をもって絡み合っている。特に、後年、井伊家と堀田家は政治の場で大小数々の対立を生む。

そして、井伊家は飛び地だった世田谷の農家集落の中にあった豪徳寺を菩提寺に指名し、代々、庇護することにする。何といっても彦根は交易の大中心地で金満の藩。東西南北の商流が集まる場所で、商業資本が充実し、お金持ち、お宝持ちだったのだ。ところが、現在の地価で考えれば、25万石の彦根の地価と1万7000石の佐野の地価と3000石弱の世田谷の地価はどれが一番高いのだろうかと考えてしまう。

なにしろ、豪徳寺は世田谷の中でも区役所に近い中心地。「The Setagaya」。住宅が立ち並ぶ中に、地価総額想定不能の広大な敷地の豪徳寺があるわけだ。そして、その入口には巨大な山門があるのだが、私の知識では、この山門は井伊家の上屋敷にあった門が移設されたものであるはず。1860年の3月3日の大雪の日に、この門をくぐり、わずか10分にも満たない出勤ルート上で、直弼は襲われ、首と胴とが別々に帰宅した。
(つづく)