上原彩子のチャイコンライブ2002

2006-11-08 00:00:07 | 音楽(クラシック音楽他)
d7127336.jpg上原彩子は気になるピアニストだ。まさに賛否両論。安部総理のようなもので、新旧世代間の芸術観の差のようなものがある。1980年生まれの彼女が、2002年に開かれた4年に1度の第12回チャイコフスキー音楽コンサートのピアノ部門で優勝した時のライブ盤である。

先に補足しておくと、ピアノ部門では、女性で初の優勝者、そして日本人で最初。そして特筆すべきは、音楽大学出身者でないのも初めてということだ。CD収録は、コンテストのファイナルの選曲であるラフマニノフ「パガニーニの主題による変奏曲」、予選で弾いたチャイコフスキー「ロマンス」、その他シューマンのピアノソナタやショスタコービッチのソナタなど。

まず、ラフマニノフは自分でも大ピアニストであったわけで、躁鬱と闘いながら美しい名曲をたくさん創りだしているのはご存知のとおり。フィギュアスケートの選曲で困ったときは、彼のレパートリーを探せば何とかなる。その生涯最後のピアノ曲がこの変奏曲。24回にわたって変奏が続くラプソティー。途中で間違えるわけにいかない。集中力の中に、非常に細やかな感情のゆらぎが感じられるのと同時に、あちこちに一瞬のひらめきが輝く。当時22歳。ライブの好演である。

そして、チャイコフスキーのロマンス・へ単調は大豪チャイコフスキーが28歳という若さをぶつけた、珍しく熱っぽいメロディ。チャイコフスキーには熟した果実のような名曲が多いが、その中で、この若さが噴き出すような曲を選んだのは、相当の自信の演奏ということなのだろう。彼女に対しての、「平板」という批判を知っているかのようにロマンスではピアノが歌い出す。うまい。この2曲は、彼女の生涯を通しての、記念的演奏となるのだろう。72分の録音を、続けて3回も聞いてしまった。

そして、彼女は音楽大学など行っていないのだが、それではピアノはどこで弾いていたのかというと、3歳の時から「ヤマハ」なのである。ヤマハ幼児科を卒業以降、ずっとずっとヤマハに所属。もちろん、専属の調律チームが同行し、世界のどこへもヤマハのピアノを担いでいく。コンサートがテレビに映ることで、ヤマハの世界進出に加速がつく。長い間、ヤマハの思い描いていた理想のビジネスモデルがついに完成したわけだ。そして、そういう構造がまた頭の中がクラシックなクラシック評論家のお気に召さないわけだ。時に、鬼のような酷評を浴びることがある。

つまり、演奏がプレインで、感情が足りず、自動ピアノのようだという言い方だ(もっとも自動ピアノの腕前はソフト次第だろうが)。そして、案外この評は遠くもなく、最近の若い演奏者たちに特有の、「勝手流の解釈を入れずに、作曲家の原曲に近い演奏をすることにより、作曲家と演奏家が対等に対決し、新たな感動のステージに近づいていく」というようなスタイルであるのだろう。最近、聞いている多くの若手演奏家はすべてそうだ。別に、大家の演奏が嫌いと言うことではないが、それにこだわっていると、そのうち、皆が介護保険の年齢になった時に、聴くものがなくなってしまう。今から、こういう僅かな揺れのある演奏スタイルに慣れておくべきということだろう。

余談1:チャイコフスキーコンクール史について
 曽我ひとみさんの誘拐犯として指名手配されたキム容疑者の弟は有名なヴァイオリニストと報道されたのだが、これは「キム・ソン・ホー/Kim,Sang Cho氏」と思われる。1978年のヴァイオリン部門4位。同率4位のダニエル・ハイフェッツというのは、有名なハイフェッツのこどもなのだろうか?よくわからない。そして、5位は日本人で清水高師氏、同年のチェロ部門の2位は藤原真理さん。
 このコンクールでの日本人優勝者は上原さんの他、1998年の声楽部門の佐藤美枝子さんと1990年の諏訪内晶子さん。諏訪内さんは当時17か18歳の最年少記録を持っている。ハイフェッツ氏が使っていたストラディバリウスの「ドルフィン」を入手しているそうだ。

余談2:チャイコフスキーコンクールが1年延ばされた理由
 本来なら2006年はコンクールイヤーだったのだが、1年延期された。理由は諸説あるのだが、主会場の工事のため、という説がある。また、ワールドカップに話題をとられないため、という説もある。さらに、審査員にサッカー好きが多く、サッカー観戦のため、まともな審査ができないからという説まである。自分で出場するわけではないので、理由はどうでもいい。

余談3:ヤマハのこと
 上原さんが広告塔になっているヤマハなのだが、創業は1887年で、オルガンの修理から事業を興す。同年、国産オルガン1号機を製作。アップライトピアノは1900年、グランドピアノは1902年に完成(つまり上原さんの優勝は、100周年記念だったということ)。当時は、まだ欧州や米国のオルガンに対してまだまだだったようである。例の「赤い靴をはいていた女の子」の主人公のきみちゃんの養父母ヒュイット師夫妻は1905年、北海道地区のメゾヒスト教会の幹部として、旭川豊岡教会に設置する高額なオルガンを買いに、欧州に向かっている(私は、きみちゃんも同行したのだろうと睨んでいるが証拠がない)。もし、当時、ヤマハ製のオルガンの性能が欧米レベルになっていれば、赤い靴の実際の筋書きもだいぶ変っていただろうと想像できる。  

余談4:同姓同名の上原彩子
 ピアニスト上原より3歳年下に同姓同名のプロゴルファーがいる。賞金ランキング40位。今まで2005年の2位が最高順位である。契約先はウィルソン。私と同じクラブだ。ヤマハはゴルフクラブも作っているのだから、いっそこちらの上原さんにもクラブセッティングチームを派遣したらどうなのだろう。何か相乗効果があるかもしれない。