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そして、絵画史がまさに動き出したのが、オランダであるのだが、それらのコレクションを100年後に、ウィーンが収集したのは、そこが欧州の富の中心だったからで、その権威の中央に君臨したのが、ハプスブルグ家である。
地図をみると、ウィーンは地理的には欧州の中央とはいえない。かなり東よりだ。周りは森ばかりで、パリなどの大都会に行くには、深い森の中の街道を進まなければならない。そして、その天然要塞が、ハプスブルグ家を650年間も君臨させた理由なのだろう。
この美術アカデミーが完成した頃のウィーンでは、モーツアルトやシューベルトが活躍している。では、この町が音楽の都である一方、美術の都にならなかったのはなぜか、といえば、音楽と美術の質の違いによるのだろう。当時、音楽は、じかに演奏を聴くしか方法はなかった。CDもテープもない時代だった。演奏者を集めて、そこで貴族たちは生演奏を楽しんだはずだ。
一方、美術の方は、絵画はどこで描いてもいい。オランダに行って、完成品と札束とを交換して、馬車で運んでくればいいわけだ。
そういうことで、どうしてもウィーンは音楽の町になっていったのだろう。
話をウィーンからオランダに移せば、そこは当時日本と細い糸で貿易を行っていたわけだ。よく北斎の浮世絵を欧米の画家が参考にした、とされているが、逆に広重の53次など、オランダからの影響を受けているのではないだろうか(と、小さな声で・・)。コレクションを見ながら、ふと思った。