家持、義経、芭蕉、現代

2020-04-28 00:00:11 | たび
義経岩のある雨晴海岸の場所には大伴家持と松尾芭蕉の歌碑と句碑が並んでいる。少し離れた場所に両者とも苔むした石碑があるそうだが、まあ石碑で読むようなものではないかもしれない。古い順に行くと、家持(746年)、義経(1187年)、芭蕉(1689年)、現代(2020年)。間隔は441年、501年、331年。日本史の距離間隔で言うと、芭蕉と現代が最も短いわけだ。



それで、今回は松尾芭蕉を中心に考えてみる。芭蕉はおくのほそ道の旅で、ここに来て一句を詠んでいる。

わせの香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉


これは相当に家持を意識している。

「わせの香や」は、俳諧連歌の元になった連歌の始まりとされる一首、
佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を(尼つくる)
  刈る早飯は独りなるべし(家持つぐ)

の早飯(わせいい)を指している。この辺りは早稲米の産地で、京都よりも先に新米が食べられていた。そこで私(家持)を辺地(越中)に赴任させた京都の政敵より旨いメシを食っている、と当てつけの一首である。

芭蕉の旅は、江戸から奥州へ向かい、酒田のあたりから日本海を南下していた。したがって富山に来た時には南西に進んでいるので、海は右に見える。分け入るというのは、このあたり、あまり人が住んでいなかったという感じが出ている。

そして最後の『荒磯海』だが、いわゆる歌枕である。そして『ありそうみ』と読む。なぜ読み方がわかるかというと、万葉仮名で書かれているからで、なぜ万葉集に掲載されているかというと、大伴家持が作った造語だからだ。実際の地名ではない。

もっとも、家持が越中の守に赴任した頃から使っていたわけではなく、最初は隣の石碑にあるように『渋谿の清き磯』とかにしていた。『荒磯海』と言い出したのは、赴任している5年の間に、家持の弟が京で亡くなった時に、その悲しい気持ちを海に託して『荒磯海』と表現した。その家持はこの単語が気に入り、量産している。

つまり、芭蕉は中七以外の十音を家持に捧げている。中七の「分け入る右」はかなりのラフロードのイメージだが、ここで芭蕉は寄り道をしようとして、現地の人に止められている。季節はずれの藤を見て初秋のあわれ感を味わいたかったようだが、人里離れた場所にはいかない方がいいといわれたそうで、そのがっかり感が影響したのかもしれない。もっとも芭蕉は幕府のスパイだった可能性が極めて高く、平泉に行ったのも義経の最期の地を見に行っただけではなく伊達藩の探索であり、北陸を歩いたのも前田藩の探索であったのかもしれない。

そして芭蕉はその後、山中温泉から金沢に向かい、敦賀を経由して最後は大垣に向かい筆を置き、川船で伊勢湾に下り、故郷の伊賀上野に向かった。


実は、奥の細道のルートだが、不意に気が付いたのだが、義経が京都から奥州平泉まで二回目の逃走を行った時の、ほぼ逆順になっている。実は、どのルートを使ったか細部はわかっていない。室町時代に完成した『義経記』によると山伏に変装して伊勢と美濃を使って北陸道に出て、途中、越中(富山)の如意の渡し(現:伏木)で見つかりそうになり、弁慶が義経を従者にみせかけるために扇で叩いたということになっている。

その前には白山比咩神社に寄ったことになっているが、何か違和感がある。というのも難所の倶利伽羅峠の西側で山を下りると峠で捕まりそうである。このあたりはよくわからず、敦賀で海岸に出て、海路能登半島の西側に上陸して、半島を船で回るようにして能登半島の東側に上陸し、如意の渡しで疑われたのではないかとの説もある。

いずれにしても富山に出てきたわけだ。芭蕉はその後、律義にも義経が通ったと思われる推定逆ルートを歩いたのだろう。

ところで、弁慶が義経を棒で殴ったことになっているのが歌舞伎では「勧進帳」といって、安宅の関。金沢より京都に近く小松市であるが、関所があったかどうかはっきりしない。実は義経記では「越中の如意の渡し(伏木)」である。芭蕉がおくのほそ道でここを通ったのは1689年だが、市川團十郎が最初に「勧進帳」を演じたのは1701年である。つまり、おくのほそ道より後に安宅の関が登場したわけだ。といってもおくのほそ道が刊行されたのは1702年。没後13年かかっている。