雨晴海岸と義経岩(富山県)

2020-04-26 00:00:15 | たび
能登半島の旅の前に、実は僅かに富山県にもいた。あまり長々と書いていると、急増中の石川県の感染者のうち100人分くらいの責を求められそうなので、そろそろ打ち切る予定だが、今週は、何回か登場。

雨晴海岸は「あまはらし」と読むそうだ。雨を晴らしたという能動的な意味があるそうだ。弁慶を同伴して奥州に逃走中の義経が、ここを通っていたところ急に雨が降り出し、近くにあった巨石を弁慶が持ち上げ、義経の傘にしたといわれる。これが義経岩で、その場所が雨晴海岸と呼ばれたそうだ。



実際には巨大な石造りの甘食パンのような形の石がある。石と石の組み合わせにより、下に数人が隠れられるような空間がある。やはり弁慶が石を持っていたわけではなさそうだ。

地元で聞いたところ、富山、石川方面での言い草では、「弁当忘れても傘忘れるな」というのがあるそうで、それほど天気が急変しやすいということだそうだ。



ところで、義経と弁慶の二人組は牛若丸の頃(1174年)と兄の頼朝から命を狙われた晩年(1187年)と2回、奥州へ逃げ落ちている。石を傘の代わりにしたのは2回目と言われてる。

歌舞伎の勧進帳は加賀の安宅関を舞台とした関所破り物語だが、それは2度目のはず。しかし、2度目の逃走は京都から越前方面ではなく、紀伊半島横断し美濃国方面に逃れたとされる。点がつながらないと思っていたのだが。ある細い糸を後年たどった人物がいる。調査中であり、明後日には書けるかもしれない。

もっとも、逃げ道が推定できるなら、あっさり捕まったはず。わからないからこそ伝説が生まれるということだろうか。



当日は、寒いながらも風が雲を飛ばし、かろうじて海越しに立山連峰を眺めることができた。見るからに危険な感じがする。

このあたりでは日本屈指の韻文作家(詩人)である大伴家持と松尾芭蕉が和歌や俳句を詠んでいるが、次回以降にする。