大伴家持、渋谷に現れる

2020-04-27 00:00:44 | たび
富山県の雨晴海岸に義経岩と言われる名跡がある。源義経が武蔵坊弁慶と連れ立って京都から奥州平泉に逃亡中に大雨が降って、傘の代わりに弁慶が近くの大石を持ち上げて義経の傘の代わりにしたという由来による。

義経と弁慶がここを通ったのは1187年と言われる。この話は明日少し書くとして、それよりも441年前、天平18年(746年)の8月に京都から越前守として赴任したのが大伴家持(和歌の天才)だ。今でいえば富山県知事兼税務署長だ。○○守というのは、その後、武家政権に変わると、肩書だけの名誉職になる。客員教授みたいなもので、皇室の経営にとって重要な命名権と化す。

しかし、当時は重職だった。が、京都勤務とは大違いだ。



そして、赴任直後にこういう和歌を詠んでいる。

馬並めて いざうち行かな 渋谿の 清き磯廻りに 寄する波見に  家持

赴任のすぐ後に宴会があったそうだ。歓迎パーティか祝賀懇親会かは知らないが、宴席の中心人物だろう。その家持が宴も終わりに近くなった時に、

それでは皆の者、馬に乗って渋谷の海岸にでもいってみようか

という歌である。いわゆる酒酔い運転だ。渋谿は渋谷の旧字だ。当時の地名だ。

現代的にいうと、都知事新任歓迎会を新宿のHホテルパーティ会場で行った後、「ではみんなで海を見に行こう」と、第三京浜+横浜新道で鎌倉の材木座海岸まで集団暴走するような話だ。家持にとって赴任が嬉しかったのか無念だったのか。実際には、知事でありながら和歌の量産に励む。5年後に京に戻っている。

万葉集に残る赴任中の歌合せにこういうのがある。
 
佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を(尼つくる)
  刈る早飯は独りなるべし(家持つぐ)

 さほがわの みずをせきあげて うえしたを かるわさいいは ひとりなるべし
 (堰を作って水を引き、作った早稲米のご飯を一人で食べる)

一人で食べるというのは、「旨いものを一人だけで独占して食べる」という意味だったのだろうか。あるいは、「単身赴任」だったのか。あるいは、自分を京都から追い出した政敵に対して「旨いものを食っている」とあてつけたのか。

二人で一首を創る連歌の始まりと言われる歌である。その後、前半の五七五を分離独立させた男が900年以上経って、さらにこの歌を使って句を継いだ。その男、松尾芭蕉。