仁徳天皇陵の発掘

2018-11-27 00:00:18 | 歴史
一か月ほど前のニュースで、堺市の仁徳天皇陵を宮内庁と堺市が共同で発掘調査すると報道されていた。平成の最後に「開かれた皇室」が、こういう形で実現するのだと、感慨したのだが、もちろん、その発端ではあるものの、今回、何かを期待しても何もないだろうと予言できるほど小規模らしい。

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実は昨年、堺市の観光の一環で、そこに行ったわけだ。正式には、大仙陵古墳とか、仁徳天皇百舌鳥耳原中陵とか言われる。後で触れるが、確実に仁徳天皇の墳墓であるとは、まだ言い切れない部分もある。そして、大変な大きさなのだ。高さも40m近くあり、奥行きも500mほど。ところが今回の発掘は、取り囲む濠の外側の堤のごく一部だそうだ。つまり墳墓そのものは対象外のような感じだ。

つまり、崩れかけている部分の補修工事の前に調査しようということのようだ。しかも、その目的が、「世界遺産登録のため」らしい。この周辺には多くの古墳があるので、一括申請しようということらしい。

確かに堺市には観光地がいくつかあるが、それぞれがかなり日本的な歴史遺産で、しかもオリジナリティが少ない。例えば、与謝野晶子と千利休の生家はわかっているが、建物はない。坂田三吉の生家の場所もわかっているが、家はない。あえていえば鉄砲鍛冶町は残っているが、ポルトガル人から技術を盗用して国内にとどまらず東南アジアまで鉄砲を輸出していたというのが評価されるのだろうか。合羽橋ではないので、鉄砲鍛冶から工場直売で火縄銃を買うわけにもいかない。それに比べて、天皇陵はリアリティそのものだ。

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で、では誰が何のために巨大な古墳を作ったのかということになる。なにしろ古墳時代に最大の権力をもっていたのが第16代仁徳天皇(天皇というコトバは当時はなかった)。むしろ、仁徳天皇は墳墓の主ではなく墳墓をつくったのではないか、つまり仁徳天皇の父である応神天皇ではないかという説がある。

何のために、という謎には合理的な説明がある。当時の都は今の大阪市の南部(難波宮)だった。堺は大阪より南なのだが、海外(中国や朝鮮)からの使者が来日するためには、対馬を経て、下関から瀬戸内海に入るしかなかった。太平洋は危険すぎるわけだ。そして淡路島の北側の明石海峡を経て、やっと大阪なのだが意図的に堺を国際港としていた。大阪の町の面前で船を南に回頭させ、堺の海岸沿いに航送して港に到着する。その時に仁徳天皇陵の長辺と同じ方向に進むので、日本の大王の権力は極めて大きいと思わせる効果があった。

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朝鮮半島には古墳が多くそのため皇室の祖先は半島出身という説もあるが、逆に、朝鮮半島からの使者に対して、日本では韓国より大きな古墳を使っていると威張るために、作ったのかもしれない。なにしろ決定打がない。