能見宿禰神社

2018-11-08 00:00:00 | スポーツ
両国界隈を散策していると、きわめて小さな神社があった。無人のように思える。神主様がお呼びにならないと、神様は降臨しないはずだから、今は不在ということだろう。いや、最近の騒動が嫌になって、しばらくお隠れになっているのかもしれない。

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神社の名は、「能見宿禰神社」。能見宿禰(のみのすくね)は相撲の始祖とされている。明治17年に初代高砂親方(高砂浦五郎)が始祖様を祀ったことで始まる。隣が高砂部屋だったそうだ。現在でも東京場所の前には相撲協会関係者により神事が執り行われているそうだ。偏った願い事を祈ったりしていないだろうか。

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境内には、横綱の石碑が二基並んでいる。一基は初代明石志賀之助から46代朝潮太郎まで、二基は47代柏戸剛から72代稀勢の里寛まで。一基目は横長で46人が刻印されたが、二基目は大判で文字も小ぶりなので一枚にちょうど百人書き込める、あと74人だ。もちろん、横綱制度が諸悪の根源ということになれば、打ち止めとなる。今の状態では誰が73代になるのか想像もつかない。今はまだ草原で馬に乗って羊を追っているのかもしれない。

ところで、初代横綱の明石志賀之助だが、ごく最近まで、実在を疑われていた。というのは記録が余りにも不正確なことや、そもそも横綱という概念がない時代の人間だったからだ。生没年不詳であるが、1624年に江戸で勧進相撲を興行したとされ、全国ツアーを回ったそうだ。身長は251cm、体重は185kgと言われる。信じますか?

実質的な初代横綱と言われるのが4代横綱の谷風梶之助と同時昇進した5代小野川喜三郎。これが1789年の頃だ。この時、既に史上最強と言われる雷電為右衛門は谷風に稽古をつけてもらい翌1790年に小結としてデビュー、時には谷風の代理で相撲を取ったりしていた。そもそも生涯の成績は254勝10敗14預かり5無勝負ということで通算勝率は9割6分2分。この預かりというのは、実際には勝負がついたあと、色々な都合があって「今日の一番は後に審査したところ問題があったので、勝敗をつけないことになった」という政治的配慮によるものなので、実際の勝率はもっと高いわけだ。

実際、谷風は4年後に病死したのだから、雷電が横綱にならなかったのは、まさに不思議で、過去より諸説がある。