芸術の森の違和感

2018-09-23 00:00:01 | 美術館・博物館・工芸品
現在では六本木のミュージアム・トライアングルや東京現代美術館のように大型の美術館は都内各所に分散しているが、昭和時代には、「芸術と言えば上野」というように上野に博物館や美術館が集中していた。

JR、いや国鉄の上野駅の公園口を出ると道を渡って正面に東京文化会館があって、右手に西洋美術館がある。まっすぐ正面には上野動物園があって右手の方に向きを変えると西洋美術館の先には科学博物館があるが、なぜか広い空間があって、左側にはポツンと東京都美術館があるが他には大きな建物は何もない空間である。その空間を山手線と同じ向きで進むと国立博物館がある。門はすぐにあるが、建物はずっと先、この敷地の一番奥と言っていい場所にあり、付属のいくつかの建物も奥の敷地境界の方にあるわけだ。

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かなり不思議な土地の使い方である。そもそも普通なら、広場の中心に国立博物館や国立美術館を建てそうなものである。一歩譲って動物園だっていい。

ずっと以前から、違和感をもっていたわけだ。今年の猛暑の時など。駅から100m歩くのだっていやなのに国立博物館まで行って、二階まで階段を登るなんて・・(その割に秘宝はないし)

実は、このことについて合理的に書かれたものを読んだことはない。確かに公園整備というのは近代日本の一つの命題ではあったのだが、大公園の端ではなく中心に博物館があっても何の問題もないだろう。

実は、最近読んだ本の中で(というか幕末史の中のA級イベントだが)、西郷・勝会談の後、江戸の無血開城となったわけだが、幕府方の武士の中で、「このままでは武士の名折れ」とばかり上野の山の寛永寺に立て籠もっての抵抗が始まった。いわゆる彰義隊である。

そして、これを攻撃するのが薩長連合軍なのだが、当時の地図を重ね合わせると、そもそも寛永寺というのは巨大な敷地のわけだ。つまり上野の森=寛永寺ということのわけだ。上野の森というのは京成上野駅の裏地、西郷隆盛が犬の散歩をしている場所なのだが、そこが寛永寺の入口である。資料によれば、南側、つまり上野駅や動物園の方から攻めたのは薩摩側で、北側、つまり谷中の方で待ち伏せするのが長州側で、大村益次郎が全体の大将だった。大将が裏口にいるというのも奇妙だが、そもそも長州勢は強くなかったはずだ。金もなく下級武士や農民の寄せ集めみたいなもの。日本陸軍につながっていくわけだ。薩摩側は南側から当時の核兵器のようなアームストロング砲をボンボン使って攻め立てるわけだ(この兵器を国産化したのは佐賀藩の田中久重という技術者で、その後、東芝の元の会社を創業する)。そして、突撃が始まった。

薩摩勢は示現流という殺人剣を使い、立ち向かう者は首ゴロゴロということになり、残党は長州勢の待ち構える谷中側の日光街道方面に逃走する。今の山手線の場所が日光街道で中山道や奥州街道に続いていく。なぜか、大村益次郎は多くを逃がしてしまい、これが奥州一帯から函館まで続く戊辰戦争になっていくのだが、わざと逃がして日本の端まで追い詰めようという大村の戦略だったのか、単に戦いに強くなかっただけなのか、わからない。

話が横道に逸れたので戻すが、寛永寺の敷地内は戦死者や大砲で吹き飛ばされたり、刀で切られたりでバラバラになった体の一部が散乱したのだろう。そして官軍側の犠牲者の身元は特定できても彰義隊の方の身元を確認するような状況ではなく、公園のあちこちに埋めるしかなかったような気がする。新暦では7月で、暑さのためそのままにはできない。つまり、ある意味で寛永寺自体が墓地ともいえるわけだ。

ということで、広いところには建物がなく、端の方に建物が建っているということのように思える。

都美術館の場合、1926年に完成した時は今の場所ではなく、野球場になっていた今の場所に建て直されたのが1976年ということで、ちょうど上野戦争から108年が経過している。祟り終了ということだろうか。

それから既に40年が経ったのだが、公園の中心に近い場所には、スタバのカフェがあるだけのようだ。祟りの有無の確認なのかな。いつもよりフラペチーノが冷たく感じた時には、彰義隊の無念を祈りながらストローでプラカップを108回叩いてもらえばいいだろう。もっとも、スタバはストローを廃止するようなので、フラペチーノというメニューが存続できるかどうかは疑問なのだが。