動力物語(冨塚清著)

2018-09-04 00:00:10 | 書評
韓国でBMWのディーゼル車が突然炎上する問題が、ついに日本に波及し、リコールとなった。排ガス再循環装置(EGR)のモジュール不具合ということだそうだ。モジュールとなると、その中の何が問題化なのかまだ見えない。

EGRとはエンジンの排ガスを空気と混合して再びエンジンに投入することで、排ガス内のNOXやSOXを減らす環境効果とエンジンを冷やして熱効率を上げる燃費効果がある一方、排ガスには酸素がほとんど含まれないので、最大出力が上がらないという弱点がある。日本メーカーの多くはEGRは環境、燃費を優先し、出力はなんとかする思想だがドイツ車は出力を優先し、なんとか環境基準に合わせるという思想であるらしい(結果はあまり変わらないが)。またガソリン車よりディーゼルの方がEGRの設計は簡単と言われる。

では、韓国で炎上し、日本でまだ炎上しない理由だが、情報やデータがないのでわからないのだが、仮説でいえば軽油の品質というのも一考の必要がある。韓国も日本と同じ程度に軽油税があるのだが、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに比べて燃料の許容の幅が大きいので、流通段階で、同種の灯油や重質軽油分の混入の誘惑があるわけで、世界各国でも国ごとに取り締まっているのだが、「法律の裏には違法がある」という格言があるわけだ(聞いたことないかな?)。

doryoku


というようなことを調べているうちに、エンジンの歴史に足を踏み入れて一冊読んだわけだ。

19世紀から20世紀前半に飛躍的に発達した動力、つまりエンジンの開発の歴史を、概略的に解説した新書である。少し古い(1980年)の本なので、エンジンがついにモーターに置き換わることは予見していないし、ロータリーエンジンなど、できるわけないと断定するなどいくつかの思い込みはあるのだが、本の趣旨は、エンジン開発の歴史で、フランス、英国、ドイツの三か国がどのように意図しない競争の末、さまざまな画期的な動力が生まれたかが書かれている。

というのも、基本的には三か国の国民性というか社会構造からくるのかもしれないが、工学系の学問に限れば(他のジャンルもそうかもしれないが、今はふれない)、この異なる特徴のある三国がそれぞれの培地で技術を積み上げたということだろう。

まず、フランスだが、理論が高遠なのだ。代表がカルノーで1824年に理想的熱サイクル理論を完成させる。最初に神様のような学者が現れるわけだ。圧力と体積によるカルノー・サイクルと言われる。まだ蒸気機関すらまともに動かせていなかった時代にだ。

4サイクルエンジンもフランス人ロシャが考案する。つまり、フランス人は理想主義のわけだ。たぶん、ソファーでブランデーとか飲みながら思索するのだろう。

次に現れるのが英国人群である。彼らはそろって設計が好きなわけだ。理論を信じて最善な効果を上げるべくエンジンの設計図を描くのだが、これがうまくいかない。彼らは机の上で、日夜、図面を描くのが好きなのだろう。

著者によれば、英国は階級社会で、エンジンを設計するのは高級な仕事だが組み立てるのは労働者の仕事ということになっていた。もちろん今でもそうだろう。貴族になるにはサッカーチームのキャプテンになって世界一になる必要がある。

そして、ドイツ人。英国人からすれば、労働者ということになるのだろうが、今でもスーツのポケットに小型ドライバーを入れているらしい。ようするにエンジニア的なのだ。あるいはエンジニア過ぎるのだ。英国人の作った図面の不備を現場感覚で直して機械を芸術品のように仕上げてしまう。もちろん、国民性が「やりすぎ」なので、ネジ一本とっても、他国のネジのように、右に10回以上回して適当なきつさになったらOKというようなことではなく、右に11回すと、カチッといって止まり二度とはずせない、というようなことをするわけだ。

米国人は、大量生産方式を考えるのが得意であり、日本人は、完成技術と思われた製品から、さらに部分的に進化させるのが得意(いわゆるガラパゴス)なのだろう。この5ヵ国は、今でも大学院で母国語で科学を教える希な国家であるわけで、今後も役割は変わらないような気がする。