将門の首塚

2018-09-16 00:00:19 | 歴史
将門とは平将門のこと。平安時代の中期に東日本で武力闘争を始め、天皇に対して新皇を名乗った。結局、官軍による成敗を受け、額に矢が刺さって討死し、首を切り取られたうえ、京都の河原で獄門になった。台の上に首をのせられて晒しものになるわけだ。

ところが、三日後、その首が光を放ち、空の彼方、東の方へ飛んで行ったわけだ。将門の出身地は茨城県なのだが、燃料切れになって、東京に落下する。大手町だ。

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実は、徳川家康は大の将門ファンだった。どうも官軍と戦ったのが気に入ったようだ。そのため、かなり大規模に祀った。江戸城の鬼門にあたる落下位置に首塚を建て、お気に入りの神田明神の神様の一人とする。

ところが明治になると、評価が一転。逆賊として、大悪党とされかける。というか、なかったことにするために、首塚を壊して大蔵省を建ててしまう。

その結果かもしれないが、大蔵省では祟りともとられる不審な事件や事故があったと伝えられる。そして、戦後になりバブルの時には、再開発も考えられたが、見送られ、現在は隣のビルが建て直しの工事中なのだが、誤って工事資材を首塚に落としてはいけないとばかり、この敷地の上空に鉄製のネットが張り巡らされている。

これでは埋められた首が、地中の栄養分を吸い上げて元気になり、当初の最終目的地である茨城県まで飛んでいこうとしても、いきなりネットに捕まるわけだ。