敵討ちの話

2018-09-10 00:00:18 | 歴史
敵討ちの話。一般論で書くと大変なことになる。日米開戦やリベンジポルノも含まれてしまい文化論に至るのだが、そんなことを書きまくるわけにはいかない。日本古来の敵討ちの話。一例を上げれば忠臣蔵だが、実は狭義の敵討ではない。主君の浅野某がご乱心し、江戸城内で抜刀したため切腹になったので、斬りそこなった相手を主君の敵ということにして集団で襲ったわけだ。無許可である。切腹を決めたのは国家権力だし、悪いのは自分の主君だ。

本物の敵討は、親殺しなどの時にこどもが、犯人を見つけ出して殺したいと申し入れると、国家権力が、「好きにやりなさい」という許可を出す。必然的に武士の世界の話になりやすい。

実は、江戸時代の終わりの頃(1857年)に現在の石巻市の海岸で越後新発田藩士久米幸太郎が父の仇として林右衛門なる男を斬ったのが最後の敵討として知っていた。しかも父が斬られてから41年もかかっていて、九州や山陰までも捜索して僧侶に身を隠していた林を意外な場所で探し出したわけだ。最近の警察以上の能力だ。この41年というのも少し前までは日本最長とされていた。菊池寛が「恩讐の彼方に」の参考資料にしたので知れ渡ったのだが、それを超える期間で成就した例が見つかっている。53年かけて母の敵を討った「とませ」という女性がいる。また、1857年では、あきらかに最後の敵討ではない。

その事件は、久米幸太郎の父が殺されたのは、藩邸で指されていた藩士たちの将棋に、横から見ていた久米の父が横から助言したため、対局後、負けた武士が逆上したらしい。まあ、口を出すのはいけないが、殺すほどのものではないわけで、切った方の林がそのまま藩外に逃走してしまった。将棋界にとって黒歴史の1ページになっている。


そして、これから紹介するのは、もっと後の時代の幕末から明治にかけて。この時代、多くの武士が運命のように亡くなっているのだが、特に不条理なのは、最初に倒閣を決意した各藩の急先鋒隊の人たち。国中が動いている中で、ゆれ戻しがあり、薩摩藩だって寺田屋事件のような急進派の虐殺が起きている。そういう関係で、理不尽な死を遂げた武士の息子にとっては、斬った相手に復讐しようと思うのが当然なのだが、幕府も明治政府も許可しない。いい加減な奴ほど出世して新政府の要職になっている。ということで、いくつかの事件が発生している。

最後の敵討を自称する候補を並べてみる。

1.1868年(明治元年)筑前秋月藩内の方針の対立で殺された臼井亘理の子が1880年(明治13年)に両親と妹の敵を討った。既に敵討は禁止されていて、殺人罪となる。

2.1869年(明治2年)金沢藩家老本多政均が軍制改革に反対する旧守派に城内で斬られる。これに対し家老の旧臣12名が、1871年(明治4年)3名を惨殺。無許可報復として12名全員が切腹。

3.1861年に肥後藩藩士下田平八が江戸藩邸内で斬殺され。息子の恒平が1871年(明治4年)に敵を討ち、跡目相続が許可される。(もっとも、武士という階級は廃止になるわけだ)

4.これは少し歴史的に有名なのだが、1857年(安政5年)土佐藩士広井大六が棚橋三郎に謀殺された。船で沖に出たところ、海中に落とされての水死である。そして息子の岩之助の公認敵討が始まるのだが、いきなり脱藩ルートを使って土佐を出ようとして捕まる。それを助けたのが、坂本竜馬である。彼が手引きして岩之助を江戸まで連れてくる。そして、竜馬の師匠だった勝海舟に紹介するわけだ。勝は幕府の要職にいたため、棚橋三郎の動向を把握していて、和歌山県の加太に潜んでいることを岩之助に教える(ちょっとずるいか)。以下、決行は1863年だった。

5.1862年(文久2年)に赤穂藩村上天谷は急進的な尊王攘夷派7名に殺害された。その子や助太刀を含めた7名が1871年(明治4年)に、復讐の敵討に成功した。本来なら無許可であるのだから、殺人ということになり裁判で死罪になるところ、西郷隆盛の一言で死を免れる。その判決の日(明治6年2月7日)に「敵討禁止令」が発布された。

形式的にはピカピカなのが4のケースだろうが、背後に坂本竜馬や勝海舟がいるのが、少しズルいようにも思える。

いずれにしても、武士身分が消滅したことにより、古来からの敵討文化は消滅したといえるわけだ。