沖縄(1)首里城にて

2009-05-04 00:00:30 | たび
shureiGWに先立ち、最も旅行代金の安いとされる4月中旬に沖縄旅行に行く。自由業みたいだ。

週末の休日を使っているので、たいした話じゃない。まず、軍用機の並ぶ那覇空港に着陸。15年振りかな。その時は、沖縄本島には1ステイで、石垣島、西表島に飛んでいったのだが、今回は本島だけ。

色々考えて、南部の激戦地には行かず、中北部へ向かうことにした。沖縄戦に目をつぶろうということではなく、事前学習が必要かなということと、もうひとつ前の沖縄。つまり琉球王朝のことと、戦後、そして今の沖縄が知りたいということ。どうせ、また行くので。

そして、首里城。

最初に、周礼の門がある。想像していたより小さい。もちろん観光客と、観光産業の人ばかりである。沖縄の歴史的衣装の女性と記念撮影ができるようだ。一目で、本土の人と感じが違う。「アムロさん」や「SPEEDのヒトエさん」のそっくりさんが揃っているが、かまわず城内に。

この首里城は、那覇市の南部の丘の上にあって、眺望はきわめて良好。海の見え方は、愛媛の宇和島城に共通する。城門をいくつかくぐり、広大な広場に出る。底面は、白と朱色の石造りである。沖縄は、基本的には、石灰岩の島である。珊瑚礁の島。海の青と、白い砂浜。そして亜熱帯植生。

shureiそして、首里城は、戦闘用の城ではなく、琉球王朝の政治の中心であり、国際交易の中心であり、また王の権威を高めるための儀式的な中心だった。

この琉球王朝は1400年代から北部、中部、南部の勢力が争う三山時代の抗争の末、ちょうど日本の戦国時代の終焉と同じころ成立。武闘時代の城址は、「中城城(なかぐすく城)」など、数多くあるが、多くは草に埋もれているらしい。

琉球王朝は、その後、日本の江戸時代にあたる時期には、大清帝国の属国になりながらも独立を維持し、薩摩藩と付かず離れずのバランス遊泳を続けていた。この首里城にしても、全体の第一感は、北京の天安門広場と紫禁城である。そこに畳の間があるわけで、いかにこの王朝が国際政治の中で苦心していたか、よくわかる。世界の歴史を見れば、海の中の王国には、逃げる場所など、どこにもない。

ところが、太平の眠りを覚まされたのは、実は、黒船。日本に来る前に琉球に上陸している。そして、もはや大清帝国はメルトダウン状態であり、しかたなく、米軍御一行さまを大歓迎する。モノの本によれば、この時、大歓迎されたことで、ペリーが勘違いをして、日本に対して強圧方針を立てた、とも言われる。単純に考えるのは、米国人らしい。

shureiそして、明治維新。日本政府はうまく立ち回り、琉球を併合してしまう。まずは、薩摩藩に組み入れ、県として認知し、王である尚氏とその取り巻き(親方たち)に何らかの工作をして、いわゆる「琉球処分」と呼ばれる強硬措置に出る。日本国が獲得し、現在残っている唯一の海外領土である。

もっとも、これをもって封建政治に終止符を打って、沖縄の近代が始まった、という見方もできる。

沖縄が日本になったのに、韓国が日本にならなかったのはなぜかと考えてみたのだが、それは、韓国を日本にしようとしたからなのだろう。沖縄は、あくまでも沖縄であり、どうしたって沖縄の文化を維持しているし、おそらく、少なくてもあと100年は沖縄なのだろう。島であり亜熱帯であるということを受容した生活しかないわけだ。そしてそれで大部分、十分。

琉球王朝を強制終了されてしまった琉球王朝最後の王である尚氏は、その後、東京に居住することになる。王朝のお宝も個人所有だったそうだが、最近になって末裔の方が沖縄県に寄贈されたそうである。主のない王冠もその一つ。

shureiそして、太平洋戦争での唯一の日本上陸戦。米軍は北から南へと進攻を続ける。この首里城付近も大激戦地となったそうで、ほとんどの建物が倒壊した。首里城は残存部分を残し、残る部分は復元であるが、見たところは、石垣の0.1%程度しか残されていないようである。米軍の攻撃によるものとされるが、戦後、セメント材料として石垣が持ち去られたという説もある。