言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

白石一文『草にすわる』を読む

2024年01月31日 12時33分04秒 | 評論・評伝
 
 
 今日も白石文学を楽しんでゐる。
 今作は短編集。5篇の作品が編まれてゐる。
 中では「砂の城」を推す。
「若い矢田が、世を恐れ、人を恐れ、そして自らの無知を深く恐れながら、必死で文学と格闘していった」
「彼の文学は、無神論者が血眼になって神を求めているような、いわば見苦しい徒労だね」
「要するに矢田は人間関係の距離を上手くはかることのできぬ男であり、それは彼の生まれついた一大欠落だった」
 ここに記された作家矢田泰治とは、白石一文のことなのかどうか、あるいは父親で直木賞作家の白石一郎のことなのかは分からない。そんなことはもちろんどうでも良いことだが、かういふことを書き留めることのできる白石一文の日本人評を、私は得難い観察眼として嬉しく思ふのである。言葉はそれを感じるものにしかかたちを与へてくれはしない。ある人の苦しみをかういふ言葉で捉へることのできる現代作家を私は白石一文以外に思ひ浮かべられない。
 
 さて、次は何を読まうか。
コメント
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