言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

2024年の太陽の塔 高所恐怖症の鳥はゐるのか

2024年01月05日 08時48分56秒 | 日記
 冬休み最後の1日となつた。太陽の塔を見に行かうと思ひ立ち、昼食をとつた後に出かけた。歩いて行かうかと思つたが、2時間ほどの歩行に膝がどう反応するのかを考へるとやめた方が賢明だと思ひ直してモノレールで出かけた。
 公園を訪ねる人は思ひのほか少なかつた。温かい冬の一日に公園での散歩はもつてこいだが、やはり初詣が優先ではあらう。太陽の塔には神事につながるものは何もないからである。思はず拝みたくなる威風と清潔とはあるけれども、岡本太郎といふ藝術家が創り出した意匠である。
 
 しばらく眺めてゐると頭部の辺りにカラスが飛んでゐるのに気がついた。これまで何度も見てきた姿であるが、珍しい光景だつた(上の2枚目の写真のアンテナの部分にカラスが1羽止まつてゐるのがお分かりになりますか)。以前、このブログに書いたかもしれないが、太陽の塔について旧約聖書のノアの話に触れたことがあつたと思ふ。簡単に言へば、ノアの家族たちは大洪水が終はつて船から降りようとした時、窓から鳥を放つた。そして戻つて来なければ水が引いたと判断したといふ逸話である。
 1度目はカラス。2度目から4度目は鳩であつた。2羽の鳩は戻つて来たが最後の鳩は戻つて来なかつた。その連想から、私は太陽の塔とはその3羽目の鳩であり、飛び立たうとしてゐるのではなく着地した瞬間の鳩の造形に見えると解釈したのである。地上に降り立つた白鳩だ。

 そして昨日のカラス。自在に飛んでゐる姿を見て、ふと思つたのが「高所恐怖症のカラスはゐるのだらうか」といふことであつた。じつにどうでもいいことではあるが、面白く考へた。
 飛べない鳥は鳥でないとすれば、人間にとつて「飛べる」に値することとは何だらうか。そしてもしそれができないとすれば、彼は人間ではないといふことになるのか。
 人間にとつて「飛べる」とは、おそらくかういふことだらうといふことは思ひついたが、それは伏せておかうと思ふ。それを考へるといふこと自体が面白いことだからである。

 着地した3番目の鳩である太陽の塔は飛ばないことを願はれてゐる。と言ふことはもはや鳥ではない。もちろん、あれは鳥の造形ではない。平和が続く限り飛ばないことが彼の使命である。

 令和6(2024)年は、大きな地震と飛行機事故とで始まつた。時間とは人工的なものであり、1月1日の大地震には自然の意図があつた訳ではない。が、その被災地へと急がうとした海自の飛行機が事故を起こした。この不思議な連動に何かを感じるのは人間のワザである。
 ひたすらに復興と慰労との祈りを捧げるのみである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする