言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

芥川賞「影裏」を読む。

2017年08月15日 10時12分10秒 | 本と雑誌

 昨日は終日、大阪市立大学で「越境の文化論」といふテーマの講義を受けた。教員免許を更新するためには、大学での受講が必須であるからだ。午前中は、映画について(西部劇を中心に)、文学について(イギリスの唯美主義作家ウォルター・ペイター)。午後は、民話について(異類婚姻譚を中心に)、そして演劇について(蜷川幸雄)である。

 とても興味深い内容であつたが、かういふことを義務化してどうするのかといふ気もする。もつと大学が社会に開かれて、教員が一年間国内留学する制度を作り、それを希望する者を支援するといふ仕組みの方がはるかにいいのではないか、さう思ふ。義務化すれば価値が失はれる。かういふ意識で制度改革するから、学校にも「強制的に変革を迫る」かたちになり、効果が縮減してしまふのである。もつたいないと思ふ。

 閑話休題。せつかく阿倍野まで来たのだからと思ひ、帰りに近鉄百貨店本店に足を運んだ。ハルカスの屋上展望台に行かうといふ気持ちはさらさらないが、お盆休みで観光客やら買い物客やらで華やいだ店の中をぶらりと散歩しようと思つたからだ。とは言へ関心はやはり本屋に向かふ。ジュンク堂に行つた。

 最近の本屋の利用の仕方は、まづはアマゾンで本を選んでおき、その内容を実際に確かめ良ければ購入するといふスタイルをとることが多い。あるいは、逆にその本を目指して行つた書棚近辺にいい本を見つけ、それを購入するといふこともある。ためらひながら本屋内をぐるぐる巡るのが楽しみでもあるので、二三時間はかかる。

 それで昨日は二冊ほど手にしたが、結局やめてしまつた。鞄の中には二冊ほどある。kindleとhontoにも二冊づつ未読本が入つてゐるので、我慢我慢と言ひ聞かせて出ようとした。しかし、それなら雑誌ならいいだらうと思ひ、レジ横の雑誌コーナーに行つた。「さうだ、芥川賞を最近読んでゐないから読んでみようか」と、こちらは何のためらひもなく買つて店を出た。

「影裏」といふタイトルには何もイメージがわかない。そして、今朝読んだ。「勢いよく夏草の茂る川沿いの小道。一歩踏み出すごとに尖った葉先がはね返してくる。かなり離れたところからでも、はっきりそれとわかるくらいに太く、明快な円網をむすんだ蜘蛛の巣が丈高い草花のあいだに燦めいている。」

 この書き出しに、古風だなといふ感じがした。いやな感じがしなかつた。それで一気に読んだ。あとから読んだ選評の中で奥泉光が「短い」と評してゐたが、その通りと思つた。やはりこれは長編の「序章」であらう。でもたぶんこれ以上は書けないだらう。思はせぶりで一気に読ませるものだからである。村上龍の「予定調和の連続」といふのもうなづけた。東日本大震災が出てくるのも、別段驚きはない。しかし、かういふ趣向で実際の被害者はどう感じるだらうかといふ疑問がある。

 しかし、悪くなかつた。登場人物の日浅といふ男は、「わたし」にかう評されてゐる。「そもそもこの日浅という男は、それがどういう種類のものごとであれ、何か大きなものの崩壊に脆く感動しやすくできていた。」と。かういふ男がどう生きるのか、生きてきたのか、そしてそれを見てゐて引かれていく「わたし」といふ男もどういふ人間なのだらうか、物語を突き動かしていく主題に引き寄せられた。それは一言で言へば「越境」であつた。あるいは越境するかしないかの分水嶺に立つてゐる気配が濃厚であつた。いろいろなものの境界に立つた人間たちが互ひにそれを言はずに引き寄せられていく、境界にゐない者からはそれは「思はせぶり」にしか見えない。しかし、その現実を生きてゐる者の「脆さ」は妙に生々しいのである。この小説には、それが描かれてゐる。

 今後この作家がどういふ作品を書いていくのか、あるいはもう書けなくなるのかは分からない。が、沼田真佑といふおよそ小説家らしからぬ平凡な名前の人物が、どういふ小説を書くのか楽しみでもある。

影裏 第157回芥川賞受賞
沼田 真佑
文藝春秋
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