知人に勧められて、こんな本を読んでみた。
現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) | |
北田暁大,栗原裕一郎,後藤和智 | |
イースト・プレス |
著者の三人をいづれも知らない。ただ、現代の批評はつまらないなと思つてゐたので、その「事情」を知るのもいいかと思つて手を出してみた。
曰く。論者が経済を知らないからだ。
曰く。論者が若者を見くびつてゐるからだ。
曰く。論者が安倍憎しで凝り固まつてゐるからだ。
この三点である。でも果たして「論壇」なんてあるのかなとも思ふ。なぜ日本ではなくて「ニッポン」なのかなと思ふ。かういふ三人寄つても文殊の知恵ほどにも得られるものがないのが「現代批評のつまらなさ」なのだと了解できた。収穫と言へばそれだけ。
批評がつまらないのは、批評の視点が定まつてゐないことによる。その視点に共通するものを持ちえない時代なのだから致し方ない。それを解体しよう解体しようとしてきたのが近現代であつてみれば、これは自業自得である。だから、このやうに数人が視点を共有してその中で通じる批評を語り合ひ、書き合ひ、持ち上げ合ふ。さういふことになるのだらう。
ディシプリンと相互承認、その二つの軸で集団の座標が作られてゐるのだから、この三者には共通のディシプリンがあり、そしてそれを相互に承認していくしかないのである。それが「論壇」といふのであれば、本書の「論壇」とは、この三人の「事情」といふことにすぎまい。普遍性を持たないとはさういふことだ。つまりは、「論壇」がいくつもいくつもあつて、それぞれが互ひを非難し合つてゐる。それが日本の事情である。この時代がこれからどれぐゐる続くのかは分からない。そして、共通のディシプリンを作り上げていくといふことは大事で、それだけが今注力すべき事柄である。しかし、その「再生」のきつかけが若者論の再考であるといふのは、まつたく違ふ「論壇」に属してゐる私にはその発想の糸口にもたどり着けない主題であつた。