言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

憲法を変へるといふこと

2014年05月11日 10時06分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 憲法を変へる時期が来てゐる。

 明治憲法も国民自身で改訂する意思も発想もなかつたのであるから、今日の憲法も変へずにこのままいかうといふのであらうか。そのことを信念のやうに言ふいはゆる護憲派と呼ばれる人たちの心性は、唐突な言ひ方であるが聖書を持たない国のコンプレックスのやうに見えてしまふ。神の代はりに天皇を戴き、近代国家の「おままごと」はできたけれども、聖書にあたるものがないので、それを憲法に求めてゐるといふことである。

 平和主義とは「山上の垂訓」のことであり、基本的人権の尊重とは、「隣人愛」のことである。それは法律の文言であることを越えて、使徒信条である。さう生きなければならないといふ信仰の告白である。問答無用の絶対的な真理であるから、変えてはならないのである。しかし、平和とは何か、人権の根源とは何かには、彼らは答へることはできない。そして、そのことは憲法を変へよといふ保守派の人々も答へられはしない。なぜなら天皇の原理からは説明はできないからである。なるほど、法律であるから、そんな存在論的な問ひに答へる必要もないといふ反論は尤もである。しかしながら、西洋には神学があるから法律論でさういふことに触れる必要がないといふのは筋が通るが、神学を持たない私たちの国で、「無魂法律論」を主張するのであれば、私たちの国家には平和や人権の根拠を見いだせる文化がないといふことになつてしまふ。それでいいわけはない。だから、憲法を聖書に見立ててそれを信奉するか、何かを見出すかしか道はない。もちろん後者はすぐできることではないが、少なくともさういふ神学の不在から私たちの近代が始まつてしまつたといふ自覚はなければならない。

 だから、私は同世代の論者の次のやうな発言を聞いても、何も解決してゐないとしか思へない。

「憲法とは本来、国民が国のかたちを決めるもの。時代に合わせてどんな理想国家を描くのか、まず私たちが自ら考えることが大事だ。」(東浩紀「時代にあった理想考えよう」朝日新聞5月10日)

「自ら考えること」が各自ばらばらであることが問題であり、それが「時代に合わせて」考へたところで、収斂していくことなどない。東氏は、この言葉の前の方で、「日本国籍をもつ国民だけによって成り立つ従来型の国家を思い描いて」はいけない旨の主張をされてゐる。それが「時代に合わせて」考えた結果なのだらう。

「価値観が多様化するなか、一つの価値観を共有するのは無理がある」と東氏は結論づけるが、「自ら考えること」が正解へとたどり着く唯一の手段であると考へるこの「思考万能論」こそ最も厄介なジレンマを抱へこんでゐる。だいたい価値の多様化などといふことはもう三〇年も前から言はれてきたことで、その相対主義が今日の問題の根本であることが、なぜか忘れられてゐる。それとも「俺たちの議論の力は特別なのだ」といふ自負があるのか。さうだとすれば、それこそ「時代に合わせて」考へ直した方がよい。

 聖書には 「神のものは神に、シーザーのものはシーザーに」といふ言葉がある。かつて松原正氏がよく引用してゐた言葉であるが、私には東氏のやうな言説やそれに無条件に信頼を寄せる人々がシーザーであることを忘れて神にならうとしてゐるやうにしか見えない。

 終末論的に考へるしか方法はない。いつまでも偶像を神として奉るのはやめよう。「時代に合わせて」偶像を作りなほしても仕方のないことである。

 

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