言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

河合隼雄『こころの読書教室』を讀む

2014年05月01日 08時02分47秒 | 日記・エッセイ・コラム
 新潮文庫『こころの読書教室』を讀んだ。たいへんにおもしろかつた。

 取り上げられた20冊については、未知のものも既知のものもあるが、河合氏の関西弁に乗つて語られるその本は、自分が知つてゐたこととは別次元の世界を示してくれるやうであつた。

「あまり本を読まない」と語る河合氏であるが、本は讀んだ数ではなく(凡人よりははるかに多いのは当たり前。比較してゐるのが鶴見俊輔氏だから、決して河合氏が少ないわけではない!)、いかに讀んだかであることを改めて知らせてくれる。

 ただ、最後の章の「心――おのれを超えるもの」といふのは、少し違和感がある。こころは無意識の次元では個人を超えて集団的な世界につながるといふのがユングの理解なのであらうし、河合氏もそれを踏襲してゐるのであらうが、それを「おのれを超える」といふ表現でいいのかどうか。確かに、自分の意見が集団の意見と一致した場合、それは自我を超えた共同主観としての客観になる。量的な拡大による全体の出現であるが、「超える」には、さういふ多数化以外にも、絶対化といふこともあらう。つまりその場の集団の意見とは一致しない場合にも、普遍性を獲得することがあるといふことである、例へば、イエスは当時の社会では犯罪者として処刑されたが、今日では10億人以上の信者を持つキリスト級の教祖となつてゐるといふことが挙げられよう。「おのれを超えるもの」が果たして「心」であると言へるだらうか。それはやはり絶対者とのつながりにおいてであり、言つてみれば、その連結器としての心である。心は、心を超えられない。連結器自体が列車を動かすのではなく、動かすのは機関車である。

 その意味で、ルドルフ・オットーの『聖なるもの』は興味深い。

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