言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

へえ、村上春樹もこんなことを言ふのか

2014年05月15日 21時57分26秒 | 文學(文学)

こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫) こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)
価格:¥ 514(税込)
発売日:1997-12-24
 今、家にある河合隼雄の本を讀んでゐる。讀んだ本も讀んでゐない本もあつて、20冊ぐらゐにならうか。それでも膨大な氏の本からすれば何十分の一であらうか。

 その中の一冊に『対談集 こころの声を聴く』といふ本があり、これがずゐぶんと面白かつた。それそれに話題が違ふから、一冊の要約はできないけれでも、中でも村上春樹との対談は秀逸だつた。

 こんな言葉がある。

 河合 僕が心配しているのは、西洋の場合はモダンを通過してポストモダンに行くけど、日本がモダンを回避してポストモダンに行った場合です。

 かういふ何気ない言葉のとてつもない重みを感じてしまふ。「モダンを回避して」といふ言葉だけで、現代の問題のすべてを言ひ尽くしてしまつてゐるのではないか。個人にしても、家族にしても、それから社会にしても、その根拠となるものを持たずに、頭は西洋、体は近代以前の日本人といふちぐはぐな状態は、きつとそれゆゑである。どうしたら、頭と体とは一つになりうるのか、それこそがモダンを通過して克服すべき課題である。漱石が『こころ』を書かざるを得なかつたのは、その矛盾を自分の心を実験台にして考へようとしたからである。

 さて、その河合の発言にたいして、村上はかう語る。

 村上 それはすごい問題になりますね。ポストモダンであるとプレモダンであるとにかかわらず、やはり日本人にとって今本当に理想とするべきものがないんですね。だから僕なんか小説を書いていていつも思うのは、じゃあいったい到達すべき場所はどこなのかというイメージがまだ見えてこないんです。それは僕らが書きながら考えるしかないと思うんですけれど、とりあえずないんです。

 まあ、こんなにあつさりと自己の手の内を表現したといふことに驚いたし、なるほど村上の面白さもつまらなさもここにあるんだなといふことが明らかになつて嬉しかつた。理想を追ふことを諦めたポストモダンの小説家だと思ひ、それが村上節(ぶし)になつてしまつて同じ調べが続いてゐることに少々飽きてきたから、もう読まないことにしてゐるが、この人は意外にも理想とすべきものを捜してゐるのかと知ることができて良かつた。まあ、探してゐる振りをしてゐると『海辺のカフカ』を讀んで感じてしまひ、『1Q84』では探す振りを楽しんでゐるやうにさへ感じてしまつて「やれやれ」だつたが、河合を前にかういふ「告白」をしてゐるのを讀むと、案外本気なのかもといふ気もしてくる。もちろん、作品から受ける印象こそ優先すべきで、作者による作品解説など、あまり尊重すべきではない。ただ、新鮮な感動があつたのも事実で、収穫を得たやうにも思ふ。

 それにしても河合がゐない今、その死について村上はどう感じたのだらうか。どこかに書いてゐるのかもしれないが、今はまだ讀んでゐない。

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