言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「ら抜きの是非、どうやら勝負が見えてきた」?

2011年09月19日 09時51分04秒 | 日記・エッセイ・コラム

国語問題論争史 国語問題論争史
価格:¥ 5,040(税込)
発売日:2005-01
 先日、報道された2010年度の國語に關する世論調査で、「來れる」などのら拔き言葉に4割ほどの人が違和感がないとの返答があつたといふ。それを受けて、昨日の朝日新聞「天聲人語」子が、表題の「ら拔きの是非、どうやら勝負が見えてきた」と書いてゐた。ちなみに新聞報道では朝日新聞は「らぬき言葉」と書いてゐる(本文では「『來れる』などのらぬき言葉」と書かれてゐたのだ! これだと「のらぬき言葉」とも讀める。どうして「らぬき」と書いたのだらう)。

 10代の若者では74%が「來れる」派だと言ふ。なるほど、それで「勝負が見えてきた」といふのである。なんとも愚かなことだ。「來られる」といふ人にとつては、「來れる」は間違ひだと認識されるのであるから、いつまで經つても勝負はつかない。だいたい、言葉における勝負とは何を言ひたいのであらうか。「來れる」派と「來られる」派との對決とは、政治でも經濟でも、今日の原發にたいする見解でも何でも勝負事にしてみたい、自稱「平和主義」社の朝日新聞らしい物言ひである。

 いつまで經つても、「來られる」を使ふ人は、使ふ。それが言葉の自然である。

 部屋を掃除するのが好きな人の割合を10代の若者に調べてみればいい。9割の者が「嫌ひ」と答へるだらう。それで、勝負はついた。「部屋をきれいにする時代は終はつた」と報道するのが滑稽であるやうに、この度の報道も實に滑稽である。言葉は、使ふ主體がどう思ふかで、それは國語の在り方と別の話である。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする