言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

シラノ・ド・ベルジュラックを観て

2010年10月24日 08時45分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

 觀劇してから一週間が經つてしまつた。すぐに感想を書かうと思つたし、友人からはメールで感想を早く書けと言はれたので、何とかしないと忘れてしまふと思つたが、何だか忙殺の一週間で今日になつてしまつた。

  キャラメルボックスといふ劇團での名作の上演といふのがどういふものなのか分からなかつたので、半ば期待し半ば期待せずといふ思ひで出かけた。結論は、たいへんにすばらしいものだつた。

   幕開きは趣向を凝らしたメタドラマといふのかメタシアターといふのか、劇を見に來た觀客がいつしか稽古場に集ふ役者たちとなり、彼らが臺本を受け取つて役を演じる。物語の始まりは、普段着の役者が一枚羽織るだけで、觀てゐる私たちの意識を一瞬にして變へてしまふのであつた。それは見事であつた。かういふ演出は何度も觀れば飽きられてしまふのかもしれないが、17世紀のフランスの世界を描くには、相應はしいものであらう。しらじらしくなく、劇であることに自然に入り込ませる仕掛けは見事である。

   3時間あまりかかる舞臺を2時間少少で演じるために、セリフを大分カットしたらしい。削れないシラノ(主人公)のセリフだけが殘り、厖大なセリフを彼だけが喋り續けることになる。この決斷には相當な勇氣が必要だつたはずだが、概ね成功してゐたやうに思ふ。ハムレットよろしく逡巡するにはスピードが必要だらう。普通、氣の迷ひはゆつたりとした時間が必要だらうと思はれるが、じつはさうではなく、迷つてゐるときは人は焦つてゐるものだ。かつて、新大久保のグローブ座で觀たハムレットはずつと走つてゐたが、さういふ動きを伴ふのが焦躁感に驅られる人の姿である。その意味で、このシラノは喋り續けてゐたのがよかつた。作者自身の人物紹介にも「うるさい男」と書かれてゐる。不細工であるが劍の腕はすぐれ、理想を持ち續けるが哀愁がある、さういふ幾重にも引き裂かれた人物の姿がじつによく傳はつて來た。最後のところで、「それで宜い、俺の生涯は人に糧を與へて――自らは忘れられる生涯なのだ!」と戀ごころを抱くロクサアヌに言ふ姿は素直に感動した。

   シラノは詩人でもある。言葉は美文で、調べもリズムを刻んでゐる。さうしたセリフの言ひ方がしらじらしく聞えては舞臺が臺無しになる。しかし、このシラノを演じた阿部丈二は良かつた。精一杯走つてゐる姿が傳はつて來た。

   再演を期待する。

コメント
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