言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『解つてたまるか!』鑑賞録――福田恆存が斷念したこと その6

2010年02月15日 21時20分32秒 | 日記・エッセイ・コラム
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 ついでながら、同じ頃のインタビューのなかで福田恆存はかう語つてゐる。

     僕は偽善と感傷というのがなにより嫌いなんです。感傷というのはいつわりの感情、偽善というのは偽りの道徳感ですね。それがみんな通用しちゃう。昔は偽善者と言われると、ギョッとしたものです。偽善者はみんな自分が偽善をやっているという意識がある。私は自分がやっていることはいかに善とかけ離れているかという気があるから、偽善者と言われると内心ギョッとしますが、今の人は、偽善をやっているという意識がない。自分はほんとうに天下、国家のためを思って、エゴイズムなどちょっともないきれいな人間と思い込んでいるから、「偽善者め」と言っても、てんで通じない。そこで道徳感もあやふやになり、人間の感情もあやふやになり、人間関係もあやふやになって、すべてがごまかしになってしまう。そういうところで居心地よく住んでいる人間とは、これはどうなんだろうということですね。悲劇仕立てにしろ、喜劇仕立てにしろ、文学があつかうべき問題というのは、一番そこにあるのじゃないかな。

                      (「文学を語る」『三田文学』昭和四十三年十二月號)

 どうやら福田にとつて、この芝居が悲劇か喜劇かはあまり問題ではないらしい。村木がハムレットよろしく決鬪でもして死ねば悲劇として描けるが、これまで見てきたやうに村木を殺す主體を現代日本人に搜し出すことができない以上、自殺させるしかあるまい。ハムレットの死が悲劇たり得たのは、彼を受け止めたホレイショーがゐたからである。しかし、「走れ、メロス!」で全てが逃げてしまつた以上、悲劇となるのは不可能だ。となれば喜劇仕立は必然だ。ただ、その喜劇が痛快な終り方ではなくアイロニーを釀し出してしまふのは、自分の言動を省みる習慣を持たない人間が、それゆゑに安穩と暮らし他人まかせの幸せを享受してゐる状況への作者の苛立ちがあるからのやうに思へる。人間は所詮理解をし合へない存在である、その孤獨が中心主題にはあるとしても、怜悧な福田恆存ならもつとからりと終幕を書けたやうにも思ふ。

 「涙で考へずに腦細胞で考へる習慣を附ける事だな」(第三幕)と村木は、大學教授の後藤に言ふが、それは僞善と感傷に流されず、空疎で觀念的な言葉を使はずに、自分の頭で考へた言葉で話せといふことである。その傳にならへば、涙の色は違ふにせよ、「腦細胞で考へ」たこの芝居自體にも涙が滲み出てゐるやうだ。が、それから四十年、今日ではさらに「腦細胞で考へる習慣を附ける事」はなくなり、それどころか「涙」で考へることもなく、末梢神經の刺戟に反應するだけである。象徴的なのは、この芝居においても人人の笑ひが集中したのが漫才のやり取りのやうなところであつたといふことであらう。この芝居は興業的にうまく行つたとは思へない。もしかしたらこのままお藏入りといふことになるかもしれない。それはなぜか。アイロニーを理解し樂しむゆとりが私たちにないからである。

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