言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

霧に覆はれた千里中央

2010年02月01日 14時55分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今朝起きるとまつたく外が見えなかつた。昔見た『日本沈没』だつたか、その後の作品だつたか、小松左京の小説の一光景の中にゐるやうな様子だつた。読売新聞のホームページに下のやうな写真があつたので、なるほどかういふことであつたかと合点した(この写真のすぐ近くに私は住んでゐます)。写真中の建物は、最近出来た50階建てのマンションである。何だかあの911のやうだが、視界ゼロの様には少しばかりあの時の人々の悲痛な叫びを想像することができた(不謹慎か)。

Photo 

 因みに、先日ブレア前英国首相が国会で証言してゐたのを新聞で読んだが、武装解除のためフセイン政権打倒が必要だつたとイラク戦争参戦の正当性を主張してゐた。私もまたそのことに同意する。そのことは『月曜評論』や『時事評論』その他で書いたが、今もそれを変更しようとは思はない。現在の世間の論調はもちろん承知してゐる。しかし、アメリカがあの時、十字架についたのだから、私たち日本は右の強盗にならなければなるまいと思つたのだ。左の強盗になつて、自分の過ちを棚上げしてアメリカを非難するのは、自己欺瞞の極地である。もちろん、アメリカがイエスと同じ存在なのではない。ただ、イエスもまた当時の法律においては罪人であつた――そのことは事実である(悪法もまた法なり)。アメリカの罪ばかりを言ひ募り、自分だけは正義であると言ひたい人こそは、本当の強盗である。それを言ひたかつたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする