(承前)
話が大分大きくなりすぎたが、金田一の文章を讀んでゐて、こちらに沸き起る苛立ちはなぜなのかを考へてゐたら、彼には前囘見たやうな「言葉とは何か」といふ本質論がないといふことに思ひ至つた。なるほどさうだと感じることがあつたので、まとめてみたのである。
では、福田恆存は何と言つてゐるのだらうか。「表音的假名遣は假名遣にあらず」――これは、國語學の眞の權威橋本進吉の論文のタイトルであるが、福田恆存は、その文章を引用しつつ、このタイトルを小見出しに使つてゐる。ここでもそれを引くことにする。
「元來文字は、知らない言語を教へる爲のものではなく、知つてゐる言語を想ひ出させる爲のものである、さうして言語の音の形は、我々の腦中に、或意味を示し或意味に伴ふ一つづきの音として記憶せられてゐるのが常であるから、文字言語に於ける文字の形が、何等かの手懸で、その意味に伴ふ音の形を想ひ起させる事が出來れば、我々は之をたよりとしてその意味を理解し得るのであつて、必ずしも一ゝの文字が正確に一つづきの音の一つ一つの部分を示さなくてもよいのである。」
これを引きながら、福田は「私たちは音どほりに字を書くことはできないし、その必要はないのです。『表音式かなづかい』といふものはありえないといふことになります。」(「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」)と言ふ。つまり、文字は音を表すものではなく、語を表すものであるといふのだ。「讀者の耳に音を聽かせるためのものか、その眼に意味を讀みとらせるものかといふ問題」なのである。
もちろん、ここで福田が意圖したものは、言葉の本質は音か意味かといふ一元論を迫ることにあるのではない。「すべては二元論」と言つてきた福田は、ここでも言葉は意味であるといふ單純な一元論を主張するはずはない。ただ、音を寫すものだとする「表音式かなづかい」といふものは文字表記にはふさはしくないとしてゐるだけである。まつたく理の當然のことであう。ところが、さうはならないのがいつもながら不思議なことである。
「まるで日本語を知らない外國人に教へることを念頭においてゐるかのやう」といふのは、まつたく適切な表現であらう。「私は」と書いて「ワタクシハ」と讀む人はゐないが、「私は」を「私わ」と書く日本人はゐない。これは矛楯ではない。しかし、外國人から見て何と思はれるか心配であるし、これが「後進性の根據であるから、私わと書くやうにしよう」と考へるのが「表音式かなづかい」論者なのだらう。
福田は、こうした外國人を異常に氣にする人人を「國際派」と呼んでゐる。この國際派とやらは、今も脈脈と生き續けてゐて、私は山崎正和氏もじつはその一派であらうと思つてゐる。以前は、歴史的假名遣ひで表現してゐたが、近年、それをぱたりとやめてしまつたのは、やはりその正體が國際派であつたからであらう。