言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語

2007年10月12日 11時17分50秒 | 福田恆存

(承前)

前囘の最後のところで、金田一が主張するやうな「現代かなづかい」でも、現代日本語を表音的には表記することはできないといふことを述べた。

例へば、「子牛」も「格子」も、ひらがなで書けば「こうし」としかか書き表せない。しかしながら、これらの二つの言葉を同じやうに發音してゐる人はゐない。このことを、どう説明するのだらうか(歴史的假名遣ひなら、「格子」は「かうし」である)。といふことは、音にしたがつて表記するといふ觀念自體が日本語の「かな」文字にはあつてゐないといふことである。「語にしたがへ」――これが福田の國語觀、なかんづく文字觀である。

  ところが、金田一の反論は、これ以降も、またぞろ福田の擧げた例についての揶揄であり、本質論を避けてゐる。

  日本語も、古代語では「き、けり、つ、ぬ、たり」が、現代語では「た」一つになり、「古代英語の屈折が、今脱落しているのと、よく似ているではありませんか」と言ふ。「そうかと思うと、古代は、尊敬の語形が多いが、丁寧形の使用がその割に少かった。近世は、後に下るほど丁寧系が発達する」と言ふ。これらを論證して、日本語も英語も、古代語と近世語とでは差が大きくある、だから書き方に變化を與へても良いといふことを言ひたいのである。

  しかし、さう言つて置きながら都合が惡くなると、「古代語と近世語の開きは、日本におけるよりも英語の方が大きかろうと言うことは、認めていいのです。ただ、私の認めるのと、あなたの認めるのとの間には大きな開きがあることを附加しておきます」と言ひ換へるのである。いつたい何を言ひたいのか不明である。

  これでは、言がかりとしか思へない。喧嘩を賣つてゐるとしか言へない書き方である。二人が同じ山を見て、同じやうに「美しい」と言つた時に、一人が「君の『美しい』といふ言葉と、私の『美しい』といふ言葉とでは、言葉は同じであるが、大きな開きがある」と言つてゐるのと同じである。單に年長者が年少者を恫喝してゐるやうにしか見えない。

  今擧げた美の判斷なら多少の違ひもあるだらうが、論爭においてなら、論が同じであれば「大きな開き」などあるはずはない。英語の方が變化が大きいといふことが事實なら、論爭のきつかかけになつた小泉信三への反論「現代仮名遣論」において、「国語の歴史的観念の欠如」と言つたことを取り消すべきであらう。

 金田一の説を要約すれば、氏(だけ)には歴史的觀念といふものがあつて、その上で日本語の方が英語より變化の差が小さいといふことを言つたのであり、歴史的假名遣ひを使ふ人人は、ただそれに「慣れ」てしまつてゐるだけで、歴史の變化によつて、表記は變はるといふことを忘れてゐる。その意味で歴史的觀念が缺如してゐると言つたのだといふことになる。

  全く度し難い厚顏無恥である。都合が惡くなると、自己の主張を平氣で變へる。おまけに「私を威してもだめです」といふ言葉を金田一は好んで用ゐるが、「威す」などといふ言葉をそもそもこのやうな論文で多用すること自體が、いかにも權威主義的集團の中で生きてゐるといふことを暗示してしまふ。つまり、金田一は、その學會的權威で福田恆存を「威さ」うとしてゐるのである。

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