前囘引用した文章は、讀賣新聞に毎週一囘づつ連載されてゐたコラムの一つで、「西洋と日本」と題された、昭和四十一年二月二日附のものである。その主旨は、何度となく福田の手で書かれたことである。つまり、「愛國心の基本は宿命感にある」との考へで、それはあまりに當然のことであるが、今日の保守派にはお氣に召されないもののやうでもある。保守派の多くは、日本は優れてゐるから愛するのだといふ調子だからである。しかし、愛國心はその國が優れてゐるから育むべきものではなく、その國は私が生まれた場所であるがゆゑに愛するのだといふところに發すべきものである。そしてさう言ひ切る精神が、保守の基調になければならないだらうと思ふのである。
ましてや、言語學者のやうに、日本語は遲れてゐるだの論理的でないだのと、まさしく言がかりをつけて非難するのは、まつたく論外である。今もつて西洋崇拜の思潮が支配する學問なのであらう。
「明治以來の言語學者は西洋の言語學の體系を鵜呑みにして、大きな間違ひを犯してゐる。大體、西洋では、まづ言葉があつて、といふのは、音の集合體があつて、それを文字に書き表すことを思ひつき、ローマ字のやうな表音文字を發明した。ところが、日本では、なるほど原始生活をそのまま反映した和語はあつたが、それを文字に表さうなどと思ひつかないうちに、支那の文字と言葉とがはいつて來て、しかもそれが言葉よりは文字を中心に取入れられ、擴がつて行つたのである。つまり、文字が、それも表意文字が先にあつて、その音を日本化した言葉が後に生じたのである。したがつて漢字を追放することは漢語を追放することになる。言語文字のさういふ發達の歴史が間違つてゐるの何のと言つても、千年にわたる宿命的事實はどうしやうもない。文字は言葉を寫すものといふ西洋の公式一つで國字改革を企てる表音主義者には、その事實の意味も重みもわかつてゐないのである。
彼らは、人がものを言ふ時、音聲だけを用ひて文字を用ひてゐないと思ひこんでゐる。が、日本人が話をする時、たとへば『五年のキュウケイ』と言へば、その人は求刑の二文字を用ひてしやべつてゐるのであり、この語の意味を求と刑に分解して理解してゐるのである。もし彼がその文字を知らずにそれを用ゐしやべつてゐるとすれば、事實、さういふ場合もありうるが、それは彼に球形・球莖・弓形・休憩などの語彙や文字が全く無いか、または不確かにしか無いことを意味する。當用漢字や音訓整理は若い人人の間にさういふ傾向を助長してゐるのである。」(「言葉と文字」)
右に引用した論考は、昭和三十六年五月一日附の朝日新聞に掲載されたものである。一般に「現代かなづかい」は、現在の發音にあはせて書かれてゐると言はれるが、それも違ふ。福田が示した「キュウケイ」にせよ、私たちは「キューケー」と發音してゐる。それでも「キュウケイ」と書くのが正しいとするのなら、それは「語」(ある言葉を「音の集合體」として考へるのではなく、意味性において言葉を捉へたもの)を私たちが意識してゐるからである。