舟忠さんへ
コメントありがたうございます。歴史教育の必要性についてですが、舟忠さんが自己の來歴に深く思ひを致したのは、どなたからか教育されたからでせうか。御書きになられたやうに、きつかけは御尊父や御尊祖父からの御話であつたとしても、御自身で調べたことが大きく影響したのだと思ひます。本を讀み、自己との繋がりを見出すことによつて、確かな「血」の流れを感じたのではなからうか、と勝手に推測をしてをります。
歴史學といふ學問への憧れや、歴史を探りたいといふ慾求は、いづれも私たちが本來的に持つものである以上、それは今後ともになくならないでせう。そして、自己の興味や關心に基づいて歴史を探れば良いのだと考へます。歴史はいつでも「私」の歴史として語れと言ふのは、さういふことです。もちろん、學問の世界においては科學的でありたい、實證的でありたいとそれぞれの學者が考へるのは自由でせう。しかし、學校教育の場では、どんな歴史教育も、あのスタイル(教科書と講義)で行はれるならば、百害あつて一利無しと私は思ひます。再び、舟忠さんのことについて書けば、近江商人の末裔であることを誇りに思はれたのは、御自身で調べ、御自身でそこに繋がりを明確に感じたからではないでせうか。小林秀雄を我田引水に持ち出せば、「歴史はつまるところ思ひ出だ」と言ふのは、さういふ意味だらうと思ひます。思ひ出すといふ作業は、各自がするものであり、教室で教科書片手に教師が力説する場面でするものではないやうに思ひます。
また、自己の來歴を感じるのには、國民の歴史は少少大き過ぎるやうにも思ひます。文學の世界で、情緒を分かち合ふことは可能ですが(萬葉集の防人の歌などは、十二分に理解できます)、大化改新や元寇に、自己のアイデンティティを假託するのは、觀念操作として行ふとしてもかなり高度なものだと思ひます。それらは、もつと興味本位で良いと思ひますし、英雄(ヒーロー)を求める人間の性に結びつけた方が、もつとのびやかな歴史像を作り出すことができると思ひますが、いかがでせうか。
歴史教育は(「歴史は」ではなく)、如何なるプロパガンダの道具にもしてはならない――私の結論です。