言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語65

2006年04月03日 19時02分39秒 | 福田恆存

福田恆存の「一匹と九十九匹と」は、文學と政治とを峻別せよとの意である。しかし、人間は文學と政治といふ兩義性を持つてゐることを否定するものではなかつた。福田の眞意は、安易な、文學による政治の介入、あるいは逆に政治による文學の手段化を否定するところにあつた。

國語政策について言へば、その方向が政治による一方的な介入であり、文學以上に個人の主體性に基くべき「假名遣ひ」を、一片の通達によつて「統制」しようとする動きは、斷じて間違つてゐると言はざるをえない。百匹を安易に近代化(それもまさしく「 」附きの、似非近代化に過ぎぬもの)に連れていくために、牧人が假名遣ひを變へてしまつたのである。福田の主張がもしアナクロニズム(時代錯誤)に聞える方がいらつしやるならば、それは彼我の誰もが百匹の羊であり、元ゐた場所を忘れてしまつてゐるからである。

福田の孤獨は、一匹を救ひあげる孤獨ではなく、一匹を探す孤獨であり、惡しき牧人に連れ去られ、かつての良き故郷を忘れてしまつた羊達に、その記憶を呼び醒ます鬪ひから始めなければならないゆゑのものである。

一匹と九十九匹と――そこにある人間觀は、文學と政治との引力に引き裂かれることなく、個人が文學的求心力と政治的遠心力との平衡を保ち續けることに眼目がある。そして、それを可能とするか不可能とするかの鍵は、その個人が絶對者を意識してゐるかどうかにかかつてゐると考へるのである。

ところが現在の羊達百匹は、文學ほどにも深く内省することのないが内を向いて引きこもりやすい「文學『的』人間」と、政治ほどには人を感化し責任を取らうとはしないが外に向かつて要求だけはする「政治『的』人間」とに、分裂してしまつてゐるやうである。似て非なるいよいよ恐ろしきヌエの誕生である。したがつて、相反する二つの力を自我のなかで「平衡」を取るなどといふ意識は金輪際ない。

福田の「文學と政治」論の背景に絶對者がゐることを知らずに、人間には「一匹」(文學的)の立場も、「九十九匹」(政治的)の立場もあるといつた兩義性を説いても意味はない。「兩義性」とは山崎氏のよく使ふ術語であるが、氏が兩義性と言ふとき、どうも平面上の異質性にのみ焦點をあててとらへてゐるのではないかと思はれる。

「社交する人間」には次のやうな主張がある。これを讀めば、少なくとも氏には絶對者といふものが分からないといふことは斷言できる。

 西洋の個人主義の成立の原因については、とかくその観念的、思想的背景ばかりが強調されるきらいがあった。たとえばキリスト教の一神教的な性格を過大視して、人間が唯一神と向かい合い、一対一で立つことが誇り高い個人を形成したと説くような議論が多すぎた。(中略)が、少なくとも個人主義形成の一つの決定的な要因が社交であったことを注意しておきたい。いわずもがなのことだが、人間は超越者にたいしても向かい合って生きるが、同時にそれよりもしばしば現世の別の人間とつきあって生きる存在だからである。

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