言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語66

2006年04月09日 22時29分12秒 | 福田恆存

また、先囘引用した部分のまへでは、「作法」誕生の經緯を次のやうに説明してゐる。ここでも、山崎氏は絶對者を認ない。さういふ存在にたいしての感性がどうやらないのらしい。

 深く理論的に掘りさげてみても、作法がほかならぬ食事の場所で発明され、そこでとくに人びとに理解されたのは当然だといえそうである。なぜなら食事は第一に目に見えてわかる端的な消費の行動であり、第二には初めと終わりの見えやすい一定時間のなかで営まれる行動だからである。

 

作法が食事からうまれたとする仮説の妥當性を云々する力量を、私は備へてゐないから、そのことについては觸れない(が、率直に言つてたいへんに違和感がある。作法は原始の時代のやはり宗敎的な感覺が生みだしたものであらう。白川靜氏の漢字の研究などを仄聞するまでもなく、神事から作法が生まれたとするのが妥當のやうな氣がする)、しかし、一つだけ言ひきれるのは、山崎氏が大事なところで、決定的に間違つてゐるといふことである。

いま引用した内容が、「深く理論的に掘りさげた」うへでのものであるといふのは冗談だとしても、食事の前の祈りが、まづ神への感謝であり、そのつぎに生産してくださつた人々への感謝であることを知らないといふのは、冗談にも程がある。たしかに「食事」が、表面的には消費の行動だとしも、それは生産への感謝を前提にしてゐるものである。氏は、もちろん食前の祈りなどしたこともないのであらう。しかし、知識としては、文學作品のなかでも歐米體驗のなかでもそのことは知つてゐよう。

あるいは、樂園を追放された人類の先祖が、汗して勞働をしたうへでしか食事を執ることができなくなつたといふ、舊約聖書の記述を博覽強記の山崎氏が御存じでないはずがない。

言ふまでもなく食前の祈祷は、「肉の糧」を與へられたことへの感謝から始まるのである。

それにもかかはらず、食事を「消費の行動」としてしか解釋しないといふのは、御自分の理論を正當化するために事實の裏面をあへて隱蔽したのではないかと疑念がもたれても致し方あるまい。さうであれば、やはり議論の出發の時點で決定的な誤謬を含んでゐると言はざるを得ない。

すでに何度も言つてきたが、作法は、生産の過程で生まれたものである。そして、それは感謝を第一義とし、その喜びを分かち合ふ儀式として生まれたのである。喜びの形式としての作法は、第二義的なものであり、山崎氏はこちらしか見てゐない。

この「社交する人間」では、ジンメルとホイジンガの誤解を「その功績そのものが理論的な問題を引き起しているのである」と述べてゐるが、その言葉はそつくりそのまま山崎消費文化論にも當てはまる。

さて、このまま、ジンメルの社交論、ホイジンガの遊戲論への山崎氏の批判と、氏自身の社交論への批判とをつづけたい衝動に驅られるが、國語論の主題からは離れてしまひさうなので、そのことへは言及するのは控へたい。いや、讀者のなかには、もう十分「主題から離れてゐる、何を今更」とおつしやる方もゐるかとは思ふが、私としては細い絲ながらつながりを見出してはゐる。

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