言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語32

2005年09月04日 22時20分04秒 | 日記・エッセイ・コラム
 そのほか、東南アジアの現在の言語と私たちの國語とをくらべれば、その音韻や構造が全く異なることは火を見るよりも明らかである。もつとも大野晋氏のやうにタミール語を日本語の祖語とする學説もあるが、それは學説の域を出ない。母音の對應や文法構造の同一性などから同系統の言語であることを探つてゐるのであるが、「語源」といふ問題は文字が發明された移行でしか頼れないのであれば、ずいぶん頼りない問題でもある。
 それでも、語原を探る方向は、日本語を尊重し、過去と現在と未來とを見通して、日本語の性格を明らかにしたいといふ眞摯な言語學的慾求が根據になつてゐる。
 ところが、上田萬年はさうは考へなかつた。
 日本語などといふものは遲れた非近代的なものなのであつて、ヨーロッパ言語こそが言語であり、それに似せることが國語の近代化なのであると考へるのである。そこには、言語學の對象がインド=ヨーロッパの言語でしかなかつたといふ當時の言語學の水準があり、西洋言語に當てはまる圖式が、世界中の言語に當てはまるはずだとの謬見があつた。
 西洋中心の「近代」を相對的に見ることなど全く想像もできない状況下では、私たちの國語を江戸期の國學者たちが見つめた視點で見ることなど毛頭できないわけである。さうであるからこそ、國語は表音化が望ましいと確信をもつて考へられたのであり、漢字は必要ないと主張しえたのである。
 今日、書家の石川九楊氏は、漢字とは、古代の象形文字(古代宗敎文字)が表音化しないで、その外形意匠を引繼ぎながら脱神話化して今日まで存續してゐるもので、アルファベットとはエジプトなどの聖刻文字(ヒエログリフ)が脱神話化に失敗して象形文字を維持することができず、フェニキアやギリシャなどがそれを換骨奪胎して發音記號にしまつたものであると言つてゐる(『書字が教えてくれる』)。したがつて、漢字は書字を重んじ、アルファベットは音聲を重んじることになつたのだ。
 このやうに、書字中心言語である日本語を、音聲中心言語であるヨーロッパの言語と同じやうにしようと意圖した「國語國字改革」が國語を正道に導くはずがない。
 全く異質な言語であるものを、一つの方に近づけるといふやりかたが性向するはずがない。もちろん、鐵道や電信の技術のやうに、文明に屬するものであるなら、それは可能である。技術は普遍的であり、近代化とは文明の變化であるからである。ところが、言語は文明に屬するものではない。「おぼろづき」といふ言葉を「おぼろずき」とする表音化原理では、日本語は破壞されてしまふのである。ほのかにかすんだ春の月は、「おぼろづき」なのである。言葉は文化つまり生き方に屬してゐるのだ。
 かうした表音化を、當時の最尖端の言語學が追ひかけたといふことはどういふことだらうか。それは、先に述べたやうに、言語とは何か、私たちにとつて國語とは何かといふことを考へる作業をおろそかにしたからである。觀念の輕視、それがいつでも私たちの弱點である。



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