言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「火火」を觀て

2005年09月20日 17時48分22秒 | 日記・エッセイ・コラム
 田中裕子と窪塚俊介(洋介の弟)主演の映畫「火火(ひび)」を觀た。陶藝家・神山清子とその息子賢一の物語である。信樂の自然釉を再現するために妥協を許さず、夫に逃げられても、二人の子供の教育を放つておいても、陶藝に專念する。その執念や觀てゐて恐ろしいほどである。更に、息子が白血病になるが、心の第一の場所にはやはり陶藝が置かれてゐた。骨髓バンクのない時代である。息子のためにその運動を起こす。しかし、努力の甲斐なく息子は死んでしまふ。病と鬪ふ息子にも決して涙を見せない母の姿は、やはり悲しいものであつた。懍とした姿は、土と火と鬪ひつづけた一人の女性の強さから釀し出されるものでもあるのだらうか。
  田中裕子の好演は、見事である。冷たいものを内に祕めながら、炎に燒きつくされるやうな試煉をするりとすりぬけてゆく、それが傳はつてくるのである。
 あまり目立たない映畫であらう。私も偶然に觀た。美にとりつかれる人の生涯は、過激である。しかし、かういふ人生は現代藝術家にはないだらう。そこには、受け繼ぐ傳統も、傳へるべき技能もないからである。
 傳統とは、あのやうに熱いものである。格鬪する果てに相續できるものである。そのことを思つた。


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