(承前)
音を寫したものといふ視點で語源を探ることには、間違ひが多いことはあり得る話だ。しかしながら、それを言ふためにはもつと纖細な言語感覺があつてしかるべきである。
次には、福田恆存の語源について觸れる。
福田恆存が、語源について考へる時には、「赤」「明らか」「明るい」「(夜)明け」「あかり」「あかし」「諦む」「開ける」「あけ(朱)」などを擧げ、「あ+カ行」の言葉に何かの意味を探らうとする。それが學問的な態度であると思ふ。日本語の假名遣ひを問題にするときに、「バリカン」を持出す必要はない。
金田一京助の論じ方は、過去の學問の否定に主眼が置かれてゐるのではないか。しかしそれは單なる否定であるから、代案がない。御本人は代案を出してゐると思つてゐるが、見るとまことにみすぼらしいものでしかない。はつたりは得意のやうだが、内容が伴はないから都合が惡くなると答へなくなる。そこにあるのは學問的誠實さ、正しいこととは何かを探る精神ではなく、自己の主張のひけらかしと權威を押付ける態度なのである。
さて、もう少し福田恆存の「金田一老のかなづかひ論を憐れむ」に附合つていただきたい。
「かなづかひ」とは何か――それは「現代語音を寫さうといふ主旨から生まれたものではないのであり、文字を、もつとはつきりいへば同音異字を、書きわけるために起つたものなのです。」と全集第三卷一四九頁に書いてゐる。
萬葉集では、「キケコソトノヒメミメモヨロエ」の十四の文字は、二通りの漢字で書き分けてゐる。そのことから、橋本進吉が上代特殊假名遣と名附けたが、そのことから萬葉時代には明確に、違ふ音にはそれぞれ別の漢字を當ててゐたことが分かつた。ところがそれが、平安時代に入ると(八世紀の末)、その音の違ひがしだいにわからなくなり、この假名遣ひはすたれ、「いろは」四十七文字が成立するやうになつた。一〇七九年の承暦本『金光明最勝王經音義』にその初出が見られる(日本大學通信教育部發行『國語史』一二三頁)。
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有爲の奧山 今日越えて
淺き夢見じ 醉ひもせず
また、これに先立つて源爲憲撰の『口遊(くちずさみ)』(九七〇年)には、「たゐにの歌」といふ手習歌が見られる。「いろは歌」と同じく四七字であるが、その拙さは言ふまでもない。
田居に出で菜摘む我をぞ君召すと求食(あさ)り追ひ行く
山城のうち醉(ゑ)へる子ら藻葉(もは)干せよえ舟撃(か)けぬ
このやうに、平安時代中期までは、「イ」の音節を表すには「い」の假名しかないといふやうに一つの音節には、一つの假名が單獨で對應してゐた。ところが、それ以降、しだいに違ふ文字が同じ音で讀まれるやうになるといふ混亂が生じたのである。
昭和26年9月15日發行とあります。ちなみに、文藝春秋の全集の年譜には、昭和24年9月のところに、『こころ』解説(?)とありますが、たぶんこの本のことだらうと思ひます。いつたいに、この年譜には不備が散見されます。その旨、編輯部の方には聯絡をしましたが、もう増刷はしないとのことでしたので、それつきりになりました。いつか、私の知る限り公表したいと思ひます。