近代的自我とは何か、そんな野暮なことを考へてゐる。
キツカケは小谷野敦の『日本文化論のインチキ』を読んだことである。
その中にかうある。
「近代的自我というのは、女を人間として見る男のことか、ということになる。存外、それで間違っていないのだが、そもそも『浮雲』のような、女に振られたこととか、女に惚れて苦しむこととかいうのは、徳川期文藝では描かれなかった。」
となれば、名称はともかく実質的には江戸以前にも「近代的自我」があつたといふことになる。なんと馬鹿なと言ふのか、それが直観による印象だ。
近代になつて目覚めた「内面性」=「自我」は西洋との衝突によつて生まれたものだ。漱石が「淋しみ」として表現したのがそれである。それまでの常識が通用せずに、それでゐてそれを足蹴にするほどの新しい何かがあるわけでもなく、もがいて苦しんでゐる人が、ふと見上げた時に示す哀愁こそが「淋しみ」であり、それを感じた主体が「近代的自我」である。
漱石がその感情を抱いた時の視線の彼方にあつたのが天である、それが私の見方であるが、たとへさうでなくとも、古代人の感情(女に振られて苦しむこと)と同じであるはずはない。もし同じであれば、古代人はすでに漱石の天と出会つてゐたといふことになる。
では、なぜ古代の文學に『こころ』がないのか。
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