言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語171

2007年06月24日 19時56分37秒 | 福田恆存

  いつたいに「文明」とは廣い範圍に流通し、後にはどこが發祥地であつたのか、どこが中心地であるかといふことが分からなくなり問はれることすらなくなる性質をもつてゐる。文明とはしたがつて技術のことであると言ふこともできる。

たとへば、日本の樣樣なアニメーションは、韓國で生まれたものだと考へられてゐると韓國でアニメーションの仕事をしてゐる友人に聞いたことがあるし、我我日本人が浦安のディズニーランドに行くときに、そこがアメリカ出自の技術の移転先であるといふことを念頭に置きながら、スペースマウンテンやらジャングルクルーズやらに乘つて遊んでゐる者もゐないだらう。

もつと視野をひろげて考へてみれば、背廣や自動車や電力や學校制度といつたものは、どこで誕生したのかといふことは、クイズ番組のなかでは問題とされても、人人の日常生活のなかで意識にのぼることはありえない。それほどに馴染んでゐるからである。それが文明といふものである。

  これにたいして「文化(culture)」は、今さら言ふまでもないことであるが、土地を耕す、才能を養ふ、精神を陶冶するといふ意味の「cultivate」の派生語であり、自然に何らかの能動的な行爲を施すことを意味してゐる。もちろん、ここで言ふ「自然」とは抽象的な存在ではなく、故郷であり、風土であり、具體的な土地に結びついてあるものであり、さうであれば、「文化」とは「具體的な場所」を離れてはありえない性質を持つてゐると考へて良いだらう。

 卑近な例で言へば、靴をぬぐとき、つまさきの方を外に向けて家に入るのは、私たち日本人であり、逆に内に向けて家に入るのは、韓國人である。韓國で、日本人のやうにつまさきを外側に向ければ、「早く歸れ」といふ意味になつてしまふと聞いた。歸るときに履きやすいやうに置くといふことは、早く歸れといふ意味になると彼らは考へるからである。ところが、つまさきを内に向けるといふことに私たち日本人は、格別の理由はないけれどもなにやら異樣な印象を受ける。靴を整理してゐるといふ感じはなく、むしろぬぎつぱなしといふ印象を感じてしまふのである。

 靴のぬぎ方ひとつをとつても、その土地によつて作法がある。それが文化である。敬語といふ待遇表現でも親に尊敬語を私たちは使はない。しかし、韓國語では使はなければならない。立てひざをついて食事をすれば、私たちにはマナー違反と映るが、韓國では女性の正式な座り方である。ことほどさやうに同じ言動であつても國が違へば失禮にあたるといふことさへあるのだ。

  では、漢字といふものは、文化に屬するものか文明に屬するものであらうか。支配的な力をもち、廣大な面積を統一することのできたといふ意味で、文明(技術)であらう。

しかし、それは始皇帝が支配した秦の時代を祖とする中國古代や、大和朝廷が漢字を基に萬葉集を編纂した日本の古代においては權力的な「文明」ではあつても、いつまでもそれが絶對的な權威として力を有し、中國と日本との關係が支配・被支配の關係であると考へるのは、間違つてゐる。

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