言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

記事の重複について

2007年06月24日 22時27分53秒 | 告知

  今日になつて突然アクセス數が増えて何事だらうと思つてゐたら、友人に「お前、また木村さん(「地獄の箴言」)に叩かれてゐるよ」と言はれた。「なぜ」と訊いたら、「お前のブログの連載が重複してゐるからだ」と言はれた。それで、木村さんのブログを見てみた。なるほど叮嚀に指摘していただいてゐる。さういふことかと合點がいつた。

  自分のミスでアクセス數が増えるといふのは、情けない話だが、仕方ない。本當のことだから。この件は認めざるを得ません。ひょつとするともつと重複がありさうな氣もする。氣を付けて貼つてゐるのだが、前囘どこまで貼つたかを確認したつもりが間違へてしまつたらしい。かういふ作業は苦手である。新聞連載の方は、かういふことはないのは、その都度書いてゐるからで、編輯者もゐるし、當り前のことである。

   まだ新聞連載は續いてゐる。ブログのペースを早めても、まだ三分の一である。もとより私の論は體系的なものではない。それは力量不足だから仕方ない。宿命として國語を受け止めよといふことについても腐してをられるが、それについては變へる必要を感じない。木村さんは違ふやうだが、私としてはそんなことは一向に構はない。福田恆存はさうは言つてゐないといふのなら、どうそ御指摘ください。私も木村さんも共に國語問題協議會の一員であるが、意見が違ふのは問題ないでせう。

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