車輪の下に (角川文庫クラシックス) | ||||||||
秋山 六郎兵衛 | ||||||||
角川書店
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今度は、『車輪の下で』である。高橋健二ほかの訳は『車輪の下』であるが、私は秋山六郎兵衛の訳で読んだので、『車輪の下で』である。理由は特にない。途中最新訳の光文社古典新訳文庫(これも『車輪の下で』)も参照したが、秋山の訳はずゐぶんと古いものであるが、それはそれでよいと思つた。
神学校の入学試験に合格し進むハンスが、その規則づくめの生活に内面に葛藤を抱へ、職工として働くことにするといふ物語は、あまりに有名である。
しかし、果たしてその葛藤が私たちのものであるか、疑問を持ちながら読んでゐた。学校の規則が厳しいといふところは日本にもいくらでもあるだらう。そしてその規則に馴染めないといふ生徒もまたいくらでもゐるだらう。しかし、その感情移入で、ハンスの苦しみや神経症を理解してよいものかどうか、それが終始頭を離れなかつた。
神学校へ行くといふこと(進学校ではない!)。その規則が神のものであるといふこと。そこを辞めるといふこと。そしてそれでもその地域で生きていくといふこと。それらの一つ一つに、大きな懸隔があるのだらうと感じる。
最後にかう記されてゐる。
「ああ、もう何も言いますまい、とにかく、あんたもわたしも、あの子にはいろいろなすべきことを怠っていたんだ。そうは思いませんかね」
死んでしまつたハンスの葬儀で、彼の父親にたいして靴屋が言ふ言葉である。子育てにたいして親や大人がいつでも感じる反省である、さう一旦は認めた上で、しかし、だからと言つて打ちひしがれてゐるといふのでもない。私たち人間ができることの小ささに慄きつつも、すべては神の手にゆだねられてゐるといふ救ひも秘めてゐる。
だから、その後靴屋にたいして作者ヘッセはかう記してゐる。「靴屋は微かに悲しげに微笑して相手の男(引用者註・ハンスの父親)の腕をとった」。
この彼我の差は、私たちにはきつと分かるまい。
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