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今囘は、發表2本が面白かつた。
一つは、新進氣鋭の研究者・慶應大學の黒田氏のもの。昭和二年、關東大震災で市民の知的財産=藏書を喪失した時代、改造社は「圓本」(『現代日本文學全集』)を創刊する。全卷豫約販賣といふから強氣である。その中で、透谷はどう扱はれたのかを問ふ研究である。若手研究者らしく「テクスト論ではなく、制度論から探求した」といふ研究は、斬新で知的刺戟を受けたが、案の定、平岡敏夫先生や佐藤善也先生などから透谷そのものへの言及を求められた。孫と祖父ほどの差のある兩者の研究を巡つて眞摯なやり取りを見るのは、幸福なことだつた。黒田氏は、質問一つ一つに持てるかぎりの知見と誠實さで答へてゐた。それらは決して十分とは言へるものではなかつたが、今後の研究には示唆を與へてくれるものになつただらう。かうした經驗が大學の研究室ではありえないだらうことを思ふと、京都まで來られた收穫は大きいと思ふ。懇親會で少しく話したが、「テクスト」はよく讀んでゐるやうであつた。その上で「制度論」へと進んで行つたのには、文學史的關心がずゐぶん強いやうで、大きな構へで明治文學を捉へようとする意識を強く御持ちのやうであつた。それも素晴しいことだと感じた。透谷で好きな作品は「我が牢獄」だと言ふ。文學部へ、ましてや國文科へ行く生徒など久しく見てゐなかつたが、かういふ作品を大學時代に引かれて讀む經驗をもつた方を目の前にして、私は言葉が出なかつた。こちらの精神がずゐぶん、文學から離れてゐるやうな氣がした。もつと突つ込んで話をしたかつたが、黒田さんの意圖を探り出す言葉が見つからなかつた。そこへ佐藤先生が近寄つて來られたので、私は御二人の聞き役に囘つた。
もう一つの發表は、神戸女子大の永渕先生のもの。内容は、透谷の「鬼心非鬼心(きしんひきしん)」についてである。豫習もせずに臨んだから、慌ててその場で讀み直したが、名文だと思つた。實を言へば、まつたく記憶になかつた。確かに讀んでゐて、附箋を貼つてあるのに記憶になる。情けないことである。永渕先生の發表によつて、ずゐぶん大きな收穫を得たやうな氣がした。
悲しき事の、さても世には多きものかな、われは今読者と共に、しばらく空想と虚栄の幻影を離れて、まことにありし一悲劇を語るを聞かむ。
「青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/45474_19780.html」で全文が讀める。御關心があれば讀んでいただきたい。岩波文庫で5頁分である。
今の時代の子殺し、親殺しとどう繋がるか、しぜん話題はさういふ話にも移つたが、透谷が社會の格差問題に原因を見ることと共に、魔の存在に注目してゐることが特筆すべきことであつた。社會派の研究者からは、透谷の貧民層への理解が淺いといふ意見が出たが、なんだか自分の關心に引き寄せ過ぎだなと思つた。かういふ研究者もまだゐるんだなと新鮮な驚きがあつた。近畿圈の國立大學の先生でした。
懇親會では、この「鬼心非鬼心」に「實聞」とサブタイトルがされてゐるのはなぜかといふ話題で盛上がつた。實録でもなく、創作でもない。實聞とは何か。樋口一葉ほどの創作力がないからだといふ、透谷研究の大家北川先生からの爆彈發言に、法政大學の小澤先生がかみついた。「御言葉ですが!・・・。一葉と比較する必要はない、實聞は實聞だ、『そのやうに聞いた』といふことであつて、これは透谷の獨自性です、文章の美しさ、これにまさるものはない、斷乎、北川先生に反對!」。醉ひの勢ひもあるだらうが、きつぱりと言ひ切られて氣持ちよかつた。私は小澤先生の意見に、一票だ。この先生も社會派なのですが。
いつも來られる新保祐司、桶谷秀昭兩先生は來られなかつた。だが、それでも實に樂しかつた。何より、先生方が率直でゐられる。研究に對して眞摯である。かういふ意見のやり取りが私の性に合ふ。次は、11月8日(土)、東京である。
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