言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語274

2008年06月10日 06時47分15秒 | 福田恆存

(承前)

  梅棹氏は、前囘引用した部分のさらに少し前では、かう書いてはばからない。

「日常の新聞や雑誌をよむためだけでも、数千種の漢字とその数倍にのぼるよみかたをマスターしなければなりません。現代の国語教育が、その文字のよみかたの教育におわれて、なかなかそれ以上にはでられないというのも、もっともなことであります。これは教育技術だけではカバーしきれないことで、日本語そのものに内在する問題点だということができるでしょう。

 わたしは、こういうおそるべき問題点をかかえた日本語を、わかい国民におしこむことに従事しておられる国語科の先生がたに、同情を禁じえないのであります。」

(『同書』二〇七頁)

 一方では日本語の修得はむづかしくないと書き、もう一方ではそれはむづかしいと相反することを書いて何とも感じない感覺が、私には恐ろしく感じられる。その場の雰圍氣や時代の状況、思潮にすり寄つて、言説をコロコロと變へてしまふ。そんな人の言は、信じるに値しない。さういふ言説には振囘されないやうにする――それが私たちの唯一とることのできる正しい態度である。

  もうこれ以上、梅棹氏の主張につきあひたくないといふ讀者の方もゐるかと思はれるが、もうしばらかく御附合ひ願ひたい。なぜなら、氏の言動はどうやら今も一定の影響力があるやうだからである。といふのは、昨年(平成一九年)一月の朝日新聞の夕刊で、上下二囘に亙つてなんと「につぽんの知恵」などといふ對談企畫に登場してゐるのだ(もしかしたら關西だけかもしれないが)。

  梅棹氏の日本語改革への執念は、全く見當違ひではあるけれども(日本語のローマ字化、カナモジ化)、松坂忠則や金田一京助の表音主義とは違つて學ぶべき點はある。

  氏は、日本語にたいするコンプレックスを捨てろと何度となく著作の中で書いてゐるが、そのことについてである。松坂、金田一は、日本語の歴史を振り返り、表音式が日本語の表記としてふさはしいと表面では言ひながら、じつは歐米語がそのやうになつてゐるのであるから(それも本當は違ふのだが)、國語もそれに伍すために、さういふ風にしよう、近代化とはさういふことなのだから諦めよとの心根が透けて見える。

  もちろん、梅棹氏から、さういふ下種の勘繰りはやめよと言はれるかもしれない。しかし、書いたことがすべてである。以上見てきたことを讀んでもなほ「下種の勘繰り」ともし言ふのであれば、はつきりと訂正をしなければなるまい。

「機械にのせる」にはどうするかといふ一點でのみ國語を改革しようと考へてゐるだけである。『日本語事務革命』と自著に題をつけるほど技術と日本語との關係を考へるほどである。

  なるほど、氏の代表者は「知的生産の技術」であり、日本語はその手段にすぎないといふ、きはめて單純な思考法で言語をとらへるから當然と言へば當然であらう。

  したがつて、さういふ一元的言語觀から出される國語改革案に期待することはできない。このことは今まで述べた通りである。ただ、日本語へのコンプレックスからはきれいにのがれてゐるといふのは學ぶべきだ。

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