(承前)
「現代日本語のなやみの大部分は」、梅棹氏が考へるやうに、漢字を使はず「かながき」すれば解決できるなどといふことを、福田恆存はそもそも考へない。そして今となつてはそんなことを考へる人の方が少ないだらう。漢字の使用をやめよ、漢字の數を制限せよなどといふことはしたがつて、福田恆存は言はない。ましてや梅棹氏のやうに「かながき」をすべきなどといふことなど全く考へもつかない。もしこれを政策課題などにすれば愚策中の愚策である。しかしながら、今やさういふことは言はない。あの朝日新聞でさへ、今日では正漢字を使はうとする時代である。
さて、「ネオ漢語」(この言葉は國語學ではあまり使はないやうであるが)とは、西洋の文明で生まれたものを近代になつて飜譯した漢語のことである。そこに本來的にはあつた語源的な意味合ひは取り除かれ、ある意味のうちの特定の意味だけが限定的に譯されてしまふといふことになつた。
たとへば、民主主義といふ言葉である。はじめは、大正デモクラシー期の思想家吉野作造による譯語「民本主義」が使はれてゐたが、その漢語にしても「主義」といふ言葉が使はれてゐるやうに、本來の意味からは逸脱してゐる。言つて良ければ「誤解」を招き、その後の日本社會に惡い影響を殘してしまつた。デモクラシーとは、古代ギリシャ語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)を合せたデモクラティア(democratia)が語源である。「民衆による支配」「人民による支配」といふことであり、單に制度を意味するに過ぎない。ところが、ネオ漢語の民主主義には、制度であるといふニュアンスはなく、一つにイデオロギーに、いやもつと率直に言へば、政治の理想的なモデルとしてのニュアンスを與へられてしまつたのである。
もちろん、このことは外來語を飜譯することにおいては少なからずいつでも起きる問題であつて、すべてを否定することもできない。何となれば、今説明した「民主主義」の「民」といふ字もそれが生まれた當時の支那において、本來的に持つてゐた意味も私たちには屆けられなかつたからである。それは何か。「民」とは、目に矢が當つてゐる人の象形であり、眼の見えない人を意味する。そこから「愚かな人」を意味する言葉となつた。また、白川靜の説によればかうである。通説とは違つてゐるが、その意味も私たちには知られてゐない。
「象形。目を刺している形。金文の字形は眼睛(ひとみ)を突き刺している形で、視力を失わせることをいう。視力を失った人を民といい、神への奉仕者とされた。臣ももと視力を失った神への奉仕者であり、合わせて臣民(君主に従属する者としての人民)という。民は神に仕える者の意味であったが、のちに『たみ・ひと』の意味に用いる。」
(『常用字解』六〇五頁)
飜譯語にはかういふ「ズレ」があるとすれば、私たちはその使用にあたつては愼重の上にも愼重に扱はなければならないのである。漢字ですら「ズレ」があるとすれば、西洋出自の外來語にはよほど注意を拂ふ必要がある。そして和語が飜譯語の造語能力を持たない以上、私たちは外來語である漢語によつて西洋語を飜譯するといふ手續をしなければならない。かういふ複雜な手順を通じてしか近代化を通過できない宿命が私たちにはあるのである。もちろん、漢語があるといふことも僥倖なのであり、あながち悲觀ばかりすべきことでもない。
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