言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語174

2007年07月01日 20時25分33秒 | 福田恆存

福田恆存は、確かに文字(と言ふよりもより正確には「假名遣ひ」であり、筆の運び方といふ意味ではない「文字の書き表し方」のことである)を重視した。假名遣ひといふものを文字の書き表し方といふ側面だけでとらへると、石川氏のやうな理解つまり「文字重視」と混同されかねない。しかしながら、福田は、次のやうに明言してゐる。文明の理解を、文字からのみ見ることは斷じて福田の理解ではない。

「それにしても話にならないのは、近代化といふ複雜な社會問題を、言葉や文字といふ唯一の鍵で説きさらうといふ愚かしさです。よく刑事にはあらゆる人間が泥棒に見えると言ひますが、國語屋の職業意識過剩はその比ではありません。日本が江戸時代三百餘年を封建制度のうちに太平を貪りえたのも、またその半面、それから長く脱しえなかつたのも、その理由の大半は島國といふ地理的條件に歸せられませう。漢語漢字の難しさなどといふことは、たとへそれが事實としても、近代化阻害の理由の一割にもなりますまい。同時に、明治以後、それが近代化に役立つたといつても、他の要因にくらべれば、高が知れてゐるといふべく、やはり、いや、この益の方は二三割になりませうか、急激な近代化の最大の原因は、近代化を遲らせてゐた原因と同じ島國といふことでせう。他國から恩惠を受けにくいかはりに、損害も受けにくいといふわけです。」

『私の國語教室』二六八頁

  文明における文字の役割を過大評價する石川氏は、大陸の文明の影響力を大と見、日本は中國文明の支配下にあると捉へる。

「近代化といふ複雜な社會問題を、言葉や文字といふ唯一の鍵で説きさらうといふ」ことに「愚かしさ」を感じる福田恆存は、影響を「受けにくい」と見る。

果してどちらが正しいか。問題は、さういふことである。福田は當時の「國語屋の職業意識過剩」を見たが、私は石川氏に「書家の職業意識過剩」を見る。このことの當否は、讀者におまかせする。

  さて、かうした問題とは別に、文字と言葉との關係も述べておかなければならない。文字と言葉といふものの違ひなどまつたく考へることなく兩者は同じものの二つの言ひ方であるなどといふ理解で暮してゐても、一般の人々は何も困らない。新聞が「北朝鮮にら致された」と書かうが「拉致された」と書かうが一向に困らない。「rachi」といふ音が「無理矢理つれて行くこと」といふ言葉の意味を表してゐると分れば良いのである。しかしながら、國語の問題を論じようとするときに、その理解では困る。

  ありていに言へば、文字は言葉そのものではない。そして、言葉は文字によつて生まれたものではない。言葉の表し方(表現方法)が、文字(表現媒體)に優先するのである。もちろん、これらの關係は兩議的であつて、前者だけでは書くことができない。

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