言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語187

2007年08月30日 23時46分21秒 | 福田恆存

(承前)

  したがつて、發音通りなどといふことは原則になり得ないどころか、國語の秩序そのものを根本的にゆがめることになるのである。

「思う」がワア行五段活用などいふ説明は、活用がそれぞれ一つの行(アイウエオなどを指す)で行はれてきた二千年以上の歴史を破壞してゐることになるのに、それを何とも思はない。わづかに言葉に敏感な作家や批評家が一筋の燈明をともすのみである。丸谷才一氏は、かうした傾向を進めれば、「オモアナイ/オモイマス/オモー/オモートキ/オメーバ/オメー」(「言葉と文字と精神と」)となつてしまふと書いてゐるが、まつたくその通りである。これはすでに活用とは呼べない。「マ行破壞活動」とでも呼ぶべき甘つたれた言葉のテロリズムである。

  金田一といふ學者は、ほんたうに國語についての感性が鈍い。言葉についての感覺がずれてゐると言つてもよい。先に引用した「国語の歴史的観念の欠如」の原因を「一つには日本は中國の意義文字を使っていたからです。初めから仮名のような音標文字を用いていたら、音の推移に敏感だったでしょうに、意義文字は、音に関係なく理解できますから、発音の歴史に無頓着であり得たのです」と書いてゐる。まつたく愚論である。

言葉の本質を音だとし、音を表す文字であれば、言葉の本質を正しく知ることができ、その結果、人人は音の推移に敏感になる。これが金田一の考へる「国語の歴史的観念」なのだ。これでは日本語とは言へないではないか、といふ子供にでも分かる理屈が、どうしても分からないのだ。西洋の音聲言語コンプレックスと言つたら良いのだらうか、自國の言語にあり得ない「歴史的観念」を妄想し、それがないことを嘆いてみせる。愚かとしか言ひやうがない。人間の目は青くあるべきなのに、日本人の目は黒い、そこれは人間の本質の缺如である、などといふことをある人が言つたら、人人はその人を相手にしないであらう。しかしながら、金田一の發言にはなるほどと思ふ人がゐるのである。それほどに、言語に對する人人の感覺は鈍い。皮肉なことであるが、金田一のかうした發言に違和感を抱かない日本人が多いといふことが、最も「国語」に對する「歴史的観念の欠如」を示す事例であらうと思はれる。

  まあこのことはこれぐらゐにして、結論的に言へば、金田一の言ふやうに時時刻刻變はるものを本質と考へることを、私たちは普通「歴史的觀念」とはいはないだらう。それは正しくは「時代迎合の意識」、あるいは相對主義としての「歴史主義」(それぞれの時代によつて價値は異り、時代を越えた價値はないといふ考へ方)と呼ぶのが適切だらう。「歴史とはつまるところ思ひ出だ」と言つた小林秀雄の言を引くまでもなく、歴史とは過去とのつながりを持たうとする意識なのであり、その意識によつて蘇る敍述のことである。金田一には、さういふ意識が微塵もないことは次の文章を見ても明らかである。

「発音が歴史的に区別が無くなって来たら、それに応じて区別無しに書くべきだ。これがすなわち現代仮名遣の出発点であります。また古典仮名遣を唯一のものとしていつまでもそれを守らす方こそ、歴史を無視し、歴史に眼を塞いで、事実を隠蔽する偽(ママ)瞞になります。恐ろしいことです。どうか諸先生、この事にお気づきになつて頂きたいのです。」

(「現代仮名遣論――小泉信三博士へ――」)

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