(承前)
この種の文章に「!」を使ふ文章感覺を私は持たないから、これだけで閉口するが、最後の一文の意味するところは何なのか、さつぱり分からない。「これがために」に「これ」とは何なのか。そして「目を見張って驚かれます」とは、「現代仮名遣い」の優越性に驚嘆するといふことなのだらうか。金田一は「チョウチョウ」と書くことがそれほどに素晴しいと考へてゐるのである。しかし、チョウチョウと「ウ」をはつきり發音してゐる人などゐますかね、まづは皮肉を言つておく。
「国語の歴史的観念の欠如」とあるが、「国語」には「歴史的観念の欠如」どころかそもそも「歴史的観念」そのものなどあるはずもない。日本語としてそもそも意味が通らないやうな文で書かれては反論も何もあつたものではない。「欠如」といふのなら、達意の文章を書かうといふ意志であり、「歴史的観念の欠如」といふのならば、それは「国語」にあるのではなくそれを使ふ側の頭の中なのである。
時代によつて表記が變はることを金田一は「今さら目を見張って驚かれ」るかもしれないが、歴史的假名遣ひを愛用する者は、何も驚かない。表記は歴史と共に變はるのである。以前も述べたが、「變はる」と「變へる」とは違ふのである。「部屋はどうせ汚れるのだから汚そう」と言ふ人はゐないだらう。變はるのだから變へようといふのはその類の愚論である。自然に變はるのは仕方ないとしても、無理やり變へるのは良くない。それが歴史的假名遣ひの立場である。部屋は汚れるからと言つて無理やり汚すのではなく、掃除をするではないか。きれいに使つて、汚れれば掃除をする。それでも月日が經てば汚れてしまふ。そのときに變へれば良いのである。
ただ、ここでは金田一の假名使ひ觀を一瞥しよう。
古代、中世、近世と日本の歴史を三分して「時代と共に發音は變はる」と見榮を切る。今は「チョウチョウ」と發音するのだから、現代表記は「チョウチョウ」で良いといふことである。しかし、「チョオ」が「チョウ」に變はつても、「魚(ウオ)」は「ウウ」にも、「香(カオリ)」は「カウリ」にも、「十(トオ)」は「トウ」にはなりはしない。
國語は一つの體系をもつて存在してゐるもので、發音にしたがつて、いつの時代も變はつてゐるのではない。發音といふことを唯一の基準にしたら、極端に言へば、人によつて違つてゐたら表記も人それぞれで良いといふことになつてしまふ。その混亂を防ぐルールは、そこからは生まれて來ない。それでは言語ではない。國語ではない。
ましてや、金田一の擧げた例は、「てふてふ」を古代人が現代人の發音通りに發音してゐたかのやうに言つてゐるが、そんなことはない。「フ」は「フュ」であつたことはあきらかである。つまり現代音で言へば「テフュテフュ」を「てふてふ」と表記してゐたのである。「テフテフ」と發音してゐたかのやうに書くのは、明らかに誤謬である。