言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

河合隼雄『大人の友情』を讀む

2007年08月09日 08時41分52秒 | 日記・エッセイ・コラム

大人の友情 大人の友情
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2005-02

 先日御亡くなりになつた河合氏の本である。この方については、微妙な感想を持つてゐる。心理療法家としての業績は素晴しいものがあるのだらうし、テレビで見ただけだが、とにかく人の話を聞くのがうまい。受容と共感といふのは、私の學んだ心理療法とは違ふので、その手法については異論があるものの、聞くことにおいて人竝はずれた力量には打たれた。

しかし、『心の中をのぞいたら』だとか『心の處方箋』だとかいふタイトルはどうかと思ふし、ウソツキクラブ會長などといふ肩書を冗談でも使はない方が良いと思つてゐるから、全面的な讚辭は控える氣持ちもあつた。

ところで、先日御會ひした國際日本文化研究センターの早川先生は、この河合氏をたいへん尊敬されてゐた。御附合ひも深いやうで、早川先生がそこまでおつしやるのなら、私の見解も修正しないといけないなと思つてゐるところで、この度の訃報である。

それで、讀み直さうといふ氣持ちで讀んだのではない。夏休みになつて、今まで行つたことのなかつた近所の公立圖書館に出かけたをり、せつかくだからと思つてふと手にした本である。「友情」についての本といふことで輕く讀めるなと思つてぱらぱらと讀んでみた。すると、こんな言葉があつた。

 私はかつて、ユング派の分析家、アドルフ・グッゲンビュールの「友情」についての講義を聞いたときのことを思い出す。そのとき、彼は若いときに自分の祖父に「友情」について尋ねてみたら、祖父は、友人とは、「夜中の十二時に、自動車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と答えた、というエピソードを披露してくれた。(中略)ここで、「かくまってくれる」と言わず「話に乗ってくれる」と言っているところが注目すべきところだ。しかし、わざわざ「黙って」とつけ足しているのは、疑ったり、怒ったりせずに、ともかく無条件に話に乗ろう、ということだ。つまり、深い信頼関係で結ばれているし、話に乗って何とかしよう、という姿勢も感じられる。

 何とも衝撃的な話である。友情の例として、かういふ話を持ち出すといふのは、少少大仰だが、河合氏といふ人は、ずゐぶん友情に苦勞した人であらうといふやうにも思へた。それで、借りて讀んでみた。さらさらと數時間で讀めた。しかし、輕い本でもなかつた。例はふんだんに擧げられてゐる。青山二郎と小林秀雄、小林秀雄と中原中也、田邊元と野上彌生子、丸谷才一の弔辭、山崎正和の社交論、それから『こころ』『坊つちやん』『ヴェニスの商人』『雨月物語』明惠上人の著作などの分析は、すこぶる興味深い。

  先にも引用したアドルフ・グッゲンビュールについての言葉を再び引用する。

  彼は友情に大切なこととして、エマーソンを引用して、「真実」と「やさしさ」をあげた後に、これらは、友情の行くえをテラス、二つの星だと述べている。つまり友情について考え、方向を示すために必要なものであるが、人間はそこに「到達する」ことなどないのである。

  これは示唆するところの大きい言葉である。友情を支えるものについて、あるいは真の友情について、などを考えることは必要である。しかし、そこに生じてくる理想が「行くえを照らす星」であることを忘れ、到達目標や目的地と考えると、自分の友情について、あるいは友人に対して、怒ったり嘆いたりすることばかり増えるのではなかろうか。さりとて、理想など不要と言う人は、自分の位置や方向などが見えなくなって混乱すると思われる。

  各人が自分の友情を照らす「星」を見つけられるといいと思う。

 最後の一文に異論はあるが(「星」は誰にとつても同じやうに見えなければならないからである)、福田恆存の言葉で言ふ、理想は虚數である、現實的なものであつてはならない、簡單に現實化するやうな理想は理想の名に値しない、といふことである。

河合隼雄氏の御冥福を祈る。

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