言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

芥川賞『土の中の子供』を讀む。

2005年08月15日 14時08分54秒 | 日記・エッセイ・コラム
 中村某の芥川賞受賞作を讀む。銓衡委員諸氏の言は、あまりかんばしくなく、しかたなく出したやうな印象であるが、私は良かつた。近年では、吉田修一以來のものだと思ふ。例の女の子二人や、『介護入門』などといふふざけた小説や、薹が立つた阿部某よりもずゐぶん良い。
 何が良いか。次の言葉が、彼の姿勢であり、それを素直に讀み取れたからである。このことに盡きる。

「常に内向的に成長し続けた私は、本を読むようになった。先人の書いた物語を読みながら、この世界が何であるのかを、この表象の奥にあるものが、一体何であるのかを探ろうとした。」

 村上龍がコメントに、「虐待を受けた人の現実をリアルに描くのは簡単ではない」だらう、だから「誠実な小説家は」そんなものを書くことは「不可能だと」と書いてゐたが、讀者はそこに「虐待のリアル」を求めて讀むのではない。現實を乘り越えようとした一人の青年のリアルが私には傳はつてきた。さうであれば、それで良いと思ふ。その意味では、石原が書いたやうに「この作者には将来、人間の暗部を探る独自の作品の造形が可能だと期待している」といふ方が確かである。
 それにしてもひどいのが(相變らず)池澤夏樹である。そのコメントのトンチンカンは讀んであきれる。「ここには真の他者がいない」などといふことを書くのだからどうしやうもない。「他者」などといふものを描かずして小説には成り得ないなどと『スティル・ライフ』の作者に書いてほしくない。あの小説のどこに「他者」がゐたのか。私は何も他者がゐなければ小説にならないといふ立場ではない。でも、新人にさう言ひ放つのだから、その言は自分も受けなくてはいけない。
 いや、私にはむしろ、この小説にこそ「他者」が表はれてゐるやうに思へた。主人公を生理的に受け容れない彼女・白湯子は、他者であるし、自分自身が何だか分からない主人公は他者そのものであらう。白湯子は、「ユング的な意味での主人公の影でしかない」などと池澤は言ふが、それが何を言つてゐるのか分からない。ここには、「ロラン・バルト的な意味で」は明確な他者はゐる。主人公は、苦しんでゐるぢあないか。それを讀み取れないのなら、仕方ないけれど。
 中村さんの、次の作品を期待する。

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