言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語27

2005年08月13日 11時48分03秒 | 日記・エッセイ・コラム
 明治初期は、江戸文學を引きずる假名垣魯文の『安愚楽鍋(あぐらなべ)』『西洋道中膝栗毛』を代表とする戲作文學の時代であつた。社會は變はつても庶民の生活に突如として變革が訪れるわけではない。また、書く側においても、いきなり近代小説など出てくるはずはない。風俗を描くしかない「江戸の作家たち」は、江戸の生活そのままに現實を描いた。
 ところが、しだいに一等國としてのありやうをめぐつて國會開設の氣運が全國的に盛上がり、人人の意識もしだいに變化し、西洋を肌身で感じるやうになる。すると、政治小説の季節がやつてきた。「明六雜誌」といふ物がある。文字どほり明治六年に(實は明治七年なのだが)出た雜誌で、福澤諭吉、西周、加藤弘之、森有禮などが同人として參加してゐた。彼らが先導役になつて、自由民權運動といふものをおこしていく。學者氣風の彼らだから、きはめて理想主義的に、社會變革を追及する。きはめて革新的な言動がその特徴であつた。福澤の「漢字御廢止之議」とは、さういふ精神を端的に示してゐる。
 西洋に追附けといふスローガンの下に進められた明治維新は、西洋の知識を持つた人が重用された。知識人といふものは今日とは比較ならないほど良い待遇を得ることができたと考へられる。書生といふものが明治の小説には多く出てくるが、志をもつた青年達が仕事もしないで生きることができたほど、彼等を經濟的に支へた篤志家がゐたといふ事實が、この政治小説の季節の背景にある。
 しかし、明六雜誌の人人の持つてゐる知識とは、せいぜい「語學ができるぐらゐのもので、とくに專門知識といふようなものはない」(中村光夫評)。福澤諭吉のあの幅廣い知識は、中村に言はせれば「雜學者の典型」といふことになる。
 ところが、明治も二十年代に入つてくれると、それだけでは通用しなくなり、しだいに具體的な知識が問はれてくる。法律のこと、經濟のこと、機關車のこと、造船のことなど、現實的な知識を身につけなければならず、理想だけを掲げてゐれば良いといふ時代はしだいに去つていく。
 さうなると、文學の道は政治から離れていかざるを得ない。立身出世そのものが文學の主題になるのではなく、さうした現實とは關係のない近代的な意味での藝術として文學がなければならないといふふうに考へられてくるわけである。さういふ氣分を見事にあらはしてゐるのが、二葉亭四迷の『浮雲』であらう。出世を果たす本多昇と、書生として生きてゐる内海文三との葛藤、そしてこの小説が未完で終はつてゐるといふことも、現實と理想との間をさまよひながら苦惱する作者を期せずして傳へてくれてゐる。そして、それが明治のこの頃といふことになるのだらう。
 坪内逍遙の『小説神髓』も、森鴎外の『舞姫』など初期の作品も、さういた時代を寫し出してゐる。
文學史では、この頃の文學思潮を「寫實主義(リアリズム)」といふが、再び文學の意識は「現實(リアル)」に引き戻されたのである。



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