『アジア問題研究所報』11号(アジア問題研究所、1996年9月)に掲載された「「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」」を連載します。1996年7月に書いたものです。
佐藤正人
■「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」■
一 アジア近現代史のなかの死者
二 「万人坑」のそとで
三 「戦後」・「ポストコロニアリズム」という虚偽
四 現在の植民地アイヌモシリ
五 日本民衆として
■一 アジア近現代史のなかの死者
一九九四年と一九九五年に、日本で、ある集団に所属する者が、毒ガスを民衆にあびせかけるという事件があった。
この集団の指導者は、さまざまな宗教的用語を組み合わせて「教義」を作成し、指導部を形成し、組織を拡大し、悪事をかさねた。かれが指示し、その集団の幹部らが直接殺害した人は、五〇人を越えるかもしれない。毒ガスなどの後遺症に苦しむひともおおく、子供をふくむ数万人の人びとが思想的・情緒的におおきな混迷を経験している。
「八・一五」の五〇年後の一九九五年、この集団の指導部の犯罪を、日本のマスメディアは連日報道した。
だが、このとき日本のマスメディアは、「皇軍」の犯罪のおおきさに、ほとんど触れようとしなかった。
ヒロヒトを「神」であると信じさせられた日本人が、兵士として、毒ガスをふくむ近代兵器をつかい、直接アジアの民衆に襲いかかっていたとき、どれほどおおくのいのちを奪ったか。
一九三〇年、台湾における霧社烽起のさい、霧社のひとびとに毒ガスをあびせたのは、日本人兵士であった。
一九三一年以後、日本軍兵士は、中国の都市や農村を空爆した。日本軍は、細菌を飛行機から散布したこともあった。日本軍が散いたペスト菌によって、一九四二年に淅江省義烏市上崇村の住民三九四人が殺された(『毎日新聞』一九九六年四月四日)。「七・七事変」以後、日本軍は毒ガスをつかいはじめた。中国民衆には、日本軍の毒ガスによる被害も細菌による被害も、これまでの六〇年間ひきつづく問題であり、今後もさらにつづく問題である(紀学仁主編、村田忠禧訳『日本軍の化学戦』大月書店、一九九六年)。
「八・一五」のとき、日本軍は大量の毒ガス爆弾を中国東北部に放置した。遺棄された毒ガス爆弾は、民衆におおきな被害をあたえた。七三一部隊の放置したペスト菌をもつ鼠は、「八・一五」ののちも中国東北部の民衆をペストに感染させて命をうばった。日本政府は、毒ガス爆弾もペスト鼠も日本にもちかえろうとはしなかった。
毒ガス爆弾にかんして日本政府が、現地調査を始めたのは、一九九一年六月になってからであった。この調査は、日本で、サリン事件にかんする報道がさかんにおこなわれているさなかにもおこなわれていたが、この毒ガス爆弾にかんしては日本のマスメディアは極めてわずかしか報道しなかった。ペスト鼠にかんしては、日本政府はいまだいっさいの責任を回避しつづけている。七三一部隊がペスト菌を大量に生産するために使用した鼠は、日本で農家が飼育・繁殖させ、ハルビンに空輸されていた(埼玉県立庄和高校地理歴史研究部『ネズミと戦争』一九九五年)。
「明治維新」以後、日本人は、アジアの各地に侵入し、その地の民衆におおきな災厄をもたらしてきた。国民国家日本は、アジアの民衆の生活を破壊し、いのちを奪い、資源を奪って、経済的に成長してきた。
アジア近現代史を学ぶとき、わたしは日本人が殺害したアジアの各地の膨大な死者のことを知る。また、そのとき同時に、日本の侵略とたたかいつづけたアジアの民衆のことを知る。
日本人近現代史研究者のもっとも重要な課題は、日本の侵略の事実を細部にいたるまで明らかにすることだ。
だが、「八・一五」以後の五〇年間に、日本人研究者のおおくは、この課題を中心としてこなかった。
ヒロヒトは、「東亜永遠の平和」のためと称して、日本軍の最高司令官として日本のアジア太平洋侵略戦争を主導した。日本軍の兵士の大量殺戮の最悪の責任者は、ヒロヒトであった。
しかし、殺戮の責任はヒロヒトだけにあるのではない。日本軍の兵士は、あるときは信念、確信をもって、あるいはときに上官に強制されて、アジア太平洋の民衆に襲いかかった。
侵略戦争のときの民衆殺戮には、それを命令したものだけでなく、個々の直接の殺戮者もその責任をとらなくてはならない。だが、「八・一五」のあと帰国した日本軍兵士のおおくは、自己の民衆殺戮の過去を家族にも語ることなく、その責任をとろうとすることもなかった。
佐藤正人
■「八・一五」五一年後の「ポストコロニアリズム」■
一 アジア近現代史のなかの死者
二 「万人坑」のそとで
三 「戦後」・「ポストコロニアリズム」という虚偽
四 現在の植民地アイヌモシリ
五 日本民衆として
■一 アジア近現代史のなかの死者
一九九四年と一九九五年に、日本で、ある集団に所属する者が、毒ガスを民衆にあびせかけるという事件があった。
この集団の指導者は、さまざまな宗教的用語を組み合わせて「教義」を作成し、指導部を形成し、組織を拡大し、悪事をかさねた。かれが指示し、その集団の幹部らが直接殺害した人は、五〇人を越えるかもしれない。毒ガスなどの後遺症に苦しむひともおおく、子供をふくむ数万人の人びとが思想的・情緒的におおきな混迷を経験している。
「八・一五」の五〇年後の一九九五年、この集団の指導部の犯罪を、日本のマスメディアは連日報道した。
だが、このとき日本のマスメディアは、「皇軍」の犯罪のおおきさに、ほとんど触れようとしなかった。
ヒロヒトを「神」であると信じさせられた日本人が、兵士として、毒ガスをふくむ近代兵器をつかい、直接アジアの民衆に襲いかかっていたとき、どれほどおおくのいのちを奪ったか。
一九三〇年、台湾における霧社烽起のさい、霧社のひとびとに毒ガスをあびせたのは、日本人兵士であった。
一九三一年以後、日本軍兵士は、中国の都市や農村を空爆した。日本軍は、細菌を飛行機から散布したこともあった。日本軍が散いたペスト菌によって、一九四二年に淅江省義烏市上崇村の住民三九四人が殺された(『毎日新聞』一九九六年四月四日)。「七・七事変」以後、日本軍は毒ガスをつかいはじめた。中国民衆には、日本軍の毒ガスによる被害も細菌による被害も、これまでの六〇年間ひきつづく問題であり、今後もさらにつづく問題である(紀学仁主編、村田忠禧訳『日本軍の化学戦』大月書店、一九九六年)。
「八・一五」のとき、日本軍は大量の毒ガス爆弾を中国東北部に放置した。遺棄された毒ガス爆弾は、民衆におおきな被害をあたえた。七三一部隊の放置したペスト菌をもつ鼠は、「八・一五」ののちも中国東北部の民衆をペストに感染させて命をうばった。日本政府は、毒ガス爆弾もペスト鼠も日本にもちかえろうとはしなかった。
毒ガス爆弾にかんして日本政府が、現地調査を始めたのは、一九九一年六月になってからであった。この調査は、日本で、サリン事件にかんする報道がさかんにおこなわれているさなかにもおこなわれていたが、この毒ガス爆弾にかんしては日本のマスメディアは極めてわずかしか報道しなかった。ペスト鼠にかんしては、日本政府はいまだいっさいの責任を回避しつづけている。七三一部隊がペスト菌を大量に生産するために使用した鼠は、日本で農家が飼育・繁殖させ、ハルビンに空輸されていた(埼玉県立庄和高校地理歴史研究部『ネズミと戦争』一九九五年)。
「明治維新」以後、日本人は、アジアの各地に侵入し、その地の民衆におおきな災厄をもたらしてきた。国民国家日本は、アジアの民衆の生活を破壊し、いのちを奪い、資源を奪って、経済的に成長してきた。
アジア近現代史を学ぶとき、わたしは日本人が殺害したアジアの各地の膨大な死者のことを知る。また、そのとき同時に、日本の侵略とたたかいつづけたアジアの民衆のことを知る。
日本人近現代史研究者のもっとも重要な課題は、日本の侵略の事実を細部にいたるまで明らかにすることだ。
だが、「八・一五」以後の五〇年間に、日本人研究者のおおくは、この課題を中心としてこなかった。
ヒロヒトは、「東亜永遠の平和」のためと称して、日本軍の最高司令官として日本のアジア太平洋侵略戦争を主導した。日本軍の兵士の大量殺戮の最悪の責任者は、ヒロヒトであった。
しかし、殺戮の責任はヒロヒトだけにあるのではない。日本軍の兵士は、あるときは信念、確信をもって、あるいはときに上官に強制されて、アジア太平洋の民衆に襲いかかった。
侵略戦争のときの民衆殺戮には、それを命令したものだけでなく、個々の直接の殺戮者もその責任をとらなくてはならない。だが、「八・一五」のあと帰国した日本軍兵士のおおくは、自己の民衆殺戮の過去を家族にも語ることなく、その責任をとろうとすることもなかった。
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