■原告準備書面(2)
(五)「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」について
「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①のには、「「3 紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と書かれているだけである。
紀州鉱山で朝鮮人がどのように生活し、どのように働かされ、どのようにして亡くなったのかは、不明な点が多い。しかし、そのことが不明のままに放置されていること自体が、紀州鉱山における朝鮮人の労働の強制性、および朝鮮人への重大な人権侵害を示している。
被告熊野市が「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と「答弁」して済ませようとしていることは、かつて日本政府や石原産業がおこなった紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働と人権侵害に、過去においてだけでなく現在においても加担することである。被告は、「知らない」と「答弁」することの犯罪性を自覚し、みずから、いまからでも、急いで誠実に紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者について調査し、その調査結果を公表しなければならない。
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人について、原告らがこれまで明らかにできたことは以下のことである。原告らは紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の人数と名前を明らかにするさいに、つぎの五つの資料を手がかりとした。
① 「石原産業が1946年9月に三重県内務部に提出した報告書」(以下、『1946年石原産業報告書』とする)。
② 1269人の名前と死亡年月日が記された『従業物故者 忌辰録』(石原産業作成、1955年10月10日現在調)という「会社創業以来
の物故者」の名簿。
③ 紀和町小栗須の慈雲寺にある紀州鉱山で亡くなった423人の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』。
④ 紀和町和気の本龍寺の無縁堂に納められた無縁仏の骨箱とそれを包んだ白い布。
⑤ 遺族の了解を得て韓国で確認することができた除籍簿。
①の『1946年石原産業報告書』は、強制連行の事実を裏付けるものではあるが、その記載内容は不十分であり、誤りあるいは虚偽が認められる。『1946年石原産業報告書』の数字をはるかに上回る数の死亡が認められ、明らかにこの記載内容は事実と異なっていることがこれまでの調査で判明している。
たとえば、『1946年石原産業報告書』のはじめの部分では、「死亡者数」は「10人」と記載されているが、名簿部分で「退所」(紀州鉱山を離れたこと)の「理由」として、「死亡」とされているのは5人だけである。
しかし、紀州鉱山の真実を明らかにする会の調査では、「退所」の「理由」として、「逃亡」と記載されている千炳台さんは、韓国慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所で閲覧した除籍簿には、1944年8月1日に当時の上川村(旧、紀和町和気。現、熊野市)で死亡し、8月2日に死亡届けが出され、上川村長が受理した、と記されている。死亡届が出された1944年8月2日は、『1946年石原産業報告書』では、千炳台さんが「逃亡」したとされている日である。
千炳台さんの名前は、上記の②と③でも記録されている。
「永田白洛」(本名、李白洛)さんは、『1946年石原産業報告書』では、「慰労金」「退職手当」「帰国旅費」を受け取って1945年12月24日に帰国したと書かれているが、韓国の除籍簿では、1945年6月29日に紀州鉱山で亡くなったと記されている。また、李白洛さんの名前は、上記の③のなかにもある。
「金岡學録」(本名、金學録)さんは、李白洛さんと同じく、『1946年石原産業報告書』では、「慰労金」「退職手当」「帰国旅費」を受け取って1945年12月24日に帰国したと書かれているが、1945年1月3日に紀州鉱山で亡くなったことが、上記②『従業物故者 忌辰録』(石原産業作成、1955年10月10日現在調)に記録されている。金學録さんの名前は、上記③のなかにもある。
日本で作られた文書資料と物資料のうち、①は、全員が朝鮮人と断定できる。
②③④は、①に記載された「創氏改名」された名前と照合しつつ、朝鮮人の名前によく使用される漢字、および本姓を残して2文字にした姓から考えて朝鮮人死者を特定した(たとえば、②と③で死亡が確認され、②で1944年8月6日に「殉職」とされている「安田徳勲」さんは、安徳勲さん)。
このようにして、②では24人、③では12人、④では5人が朝鮮人と考えられ、また、①の『1946年石原産業報告書』で、10人とされている「死亡者」のうち、名簿部分では「逃亡」あるいは「帰国」とされている3人が紀州鉱山で亡くなっていたことが、韓国での調査や②③の名簿資料によって明らかになっている。
上記したように、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、2010年3月28日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会までに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を確定することができたのは35人である。それは、死者の名前が記された資料を整理し、精査し、追跡調査することによってできたことであった。
35人のなかには、「創氏改名」されていて本名を知ることができない人も多かった。しかし、その後、韓国での調査によって、①②③の資料で「創氏改名」された名前で記載されている「玉川光相」さんの本名が劉太相さんであることがわかった。
本名が確認できず死者の氏名が不完全であること、そして亡くなった朝鮮人の遺骨の所在がほとんど明らかにされていないこと、多くの遺族との連絡がとれないこと、そしてそのような状態が戦後70年近くのあいだ放置されていること、そして地元の行政責任者である熊野市がそれらの調査を放棄し、原告らの調査に非協力的な態度をとっていること、戦後日本のこのような状況がなによりも紀州鉱山の朝鮮人労働の実態を示している。
紀州鉱山に強制連行され、強制労働させられていた朝鮮人が紀州鉱山で死亡した。
その犠牲者を追悼し犠牲者の遺族に謝罪するのは、被告熊野市にとって当然のことである。熊野市には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる行政責任がある。
現在熊野市に併合されている紀和町が出版した『紀和町史』には、
「朝鮮人労働者については、正確な人数・募集の方法・労働条件の実態・労働災害・民族差別など広く資料の調査を必要とする」
と書かれている。それにもかかわらず、「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と回答した熊野市の行為は地方公務員法第33条「職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない」にも違反している。
「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」という熊野市の発言は、本訴の本質のかかわる重大な最悪の発言である。そのことを示すために、2014年2月18日付け「証拠申出書」で申請した紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの遺児である李炳植さんと紀州鉱山で亡くなった千炳台さんの遺児千鳳基さんの「証人尋問」を、ここで再度、裁判官に要請する。
(五)「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」について
「答弁書」の「第3 請求原因に対する認否」の1の①のには、「「3 紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と書かれているだけである。
紀州鉱山で朝鮮人がどのように生活し、どのように働かされ、どのようにして亡くなったのかは、不明な点が多い。しかし、そのことが不明のままに放置されていること自体が、紀州鉱山における朝鮮人の労働の強制性、および朝鮮人への重大な人権侵害を示している。
被告熊野市が「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と「答弁」して済ませようとしていることは、かつて日本政府や石原産業がおこなった紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働と人権侵害に、過去においてだけでなく現在においても加担することである。被告は、「知らない」と「答弁」することの犯罪性を自覚し、みずから、いまからでも、急いで誠実に紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者について調査し、その調査結果を公表しなければならない。
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人について、原告らがこれまで明らかにできたことは以下のことである。原告らは紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の人数と名前を明らかにするさいに、つぎの五つの資料を手がかりとした。
① 「石原産業が1946年9月に三重県内務部に提出した報告書」(以下、『1946年石原産業報告書』とする)。
② 1269人の名前と死亡年月日が記された『従業物故者 忌辰録』(石原産業作成、1955年10月10日現在調)という「会社創業以来
の物故者」の名簿。
③ 紀和町小栗須の慈雲寺にある紀州鉱山で亡くなった423人の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』。
④ 紀和町和気の本龍寺の無縁堂に納められた無縁仏の骨箱とそれを包んだ白い布。
⑤ 遺族の了解を得て韓国で確認することができた除籍簿。
①の『1946年石原産業報告書』は、強制連行の事実を裏付けるものではあるが、その記載内容は不十分であり、誤りあるいは虚偽が認められる。『1946年石原産業報告書』の数字をはるかに上回る数の死亡が認められ、明らかにこの記載内容は事実と異なっていることがこれまでの調査で判明している。
たとえば、『1946年石原産業報告書』のはじめの部分では、「死亡者数」は「10人」と記載されているが、名簿部分で「退所」(紀州鉱山を離れたこと)の「理由」として、「死亡」とされているのは5人だけである。
しかし、紀州鉱山の真実を明らかにする会の調査では、「退所」の「理由」として、「逃亡」と記載されている千炳台さんは、韓国慶尚北道安東郡臥龍面の面事務所で閲覧した除籍簿には、1944年8月1日に当時の上川村(旧、紀和町和気。現、熊野市)で死亡し、8月2日に死亡届けが出され、上川村長が受理した、と記されている。死亡届が出された1944年8月2日は、『1946年石原産業報告書』では、千炳台さんが「逃亡」したとされている日である。
千炳台さんの名前は、上記の②と③でも記録されている。
「永田白洛」(本名、李白洛)さんは、『1946年石原産業報告書』では、「慰労金」「退職手当」「帰国旅費」を受け取って1945年12月24日に帰国したと書かれているが、韓国の除籍簿では、1945年6月29日に紀州鉱山で亡くなったと記されている。また、李白洛さんの名前は、上記の③のなかにもある。
「金岡學録」(本名、金學録)さんは、李白洛さんと同じく、『1946年石原産業報告書』では、「慰労金」「退職手当」「帰国旅費」を受け取って1945年12月24日に帰国したと書かれているが、1945年1月3日に紀州鉱山で亡くなったことが、上記②『従業物故者 忌辰録』(石原産業作成、1955年10月10日現在調)に記録されている。金學録さんの名前は、上記③のなかにもある。
日本で作られた文書資料と物資料のうち、①は、全員が朝鮮人と断定できる。
②③④は、①に記載された「創氏改名」された名前と照合しつつ、朝鮮人の名前によく使用される漢字、および本姓を残して2文字にした姓から考えて朝鮮人死者を特定した(たとえば、②と③で死亡が確認され、②で1944年8月6日に「殉職」とされている「安田徳勲」さんは、安徳勲さん)。
このようにして、②では24人、③では12人、④では5人が朝鮮人と考えられ、また、①の『1946年石原産業報告書』で、10人とされている「死亡者」のうち、名簿部分では「逃亡」あるいは「帰国」とされている3人が紀州鉱山で亡くなっていたことが、韓国での調査や②③の名簿資料によって明らかになっている。
上記したように、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、2010年3月28日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会までに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を確定することができたのは35人である。それは、死者の名前が記された資料を整理し、精査し、追跡調査することによってできたことであった。
35人のなかには、「創氏改名」されていて本名を知ることができない人も多かった。しかし、その後、韓国での調査によって、①②③の資料で「創氏改名」された名前で記載されている「玉川光相」さんの本名が劉太相さんであることがわかった。
本名が確認できず死者の氏名が不完全であること、そして亡くなった朝鮮人の遺骨の所在がほとんど明らかにされていないこと、多くの遺族との連絡がとれないこと、そしてそのような状態が戦後70年近くのあいだ放置されていること、そして地元の行政責任者である熊野市がそれらの調査を放棄し、原告らの調査に非協力的な態度をとっていること、戦後日本のこのような状況がなによりも紀州鉱山の朝鮮人労働の実態を示している。
紀州鉱山に強制連行され、強制労働させられていた朝鮮人が紀州鉱山で死亡した。
その犠牲者を追悼し犠牲者の遺族に謝罪するのは、被告熊野市にとって当然のことである。熊野市には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる行政責任がある。
現在熊野市に併合されている紀和町が出版した『紀和町史』には、
「朝鮮人労働者については、正確な人数・募集の方法・労働条件の実態・労働災害・民族差別など広く資料の調査を必要とする」
と書かれている。それにもかかわらず、「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」と回答した熊野市の行為は地方公務員法第33条「職員は、その職の信用を傷つけ、又は職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない」にも違反している。
「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」という熊野市の発言は、本訴の本質のかかわる重大な最悪の発言である。そのことを示すために、2014年2月18日付け「証拠申出書」で申請した紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの遺児である李炳植さんと紀州鉱山で亡くなった千炳台さんの遺児千鳳基さんの「証人尋問」を、ここで再度、裁判官に要請する。
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